超級的城市−上海(4)      「スーパーシティ上海」編集長 姫田小夏
パンダブーム以来の第2の中国ブーム  注目して欲しい“あなたの隣人” 
                                          (写真提供:姫田小夏)   
12月31日、クルマのタイヤが地面の氷を割る音で目を醒ました。上海に珍しく雪が降ったのだ。それから数回、脇の街道を救急車のサイレンが往復するのを聞いた。誰かが滑って腰でも打ったか。街は案の定、大混乱。人や自転車が場所を選ばず転倒していたのはもちろんのこと、クルマの運転手も慣れない雪に、スリップしてぶつけたか、道のあちこちにヘッドライトやテールランプの破片を散乱させる有り様だった。こんなふうに、珍しい体験にあたふたとしながらも上海は2004年の幕を閉じた。そして凛と張り詰めた空気の中で2005年の新しい年を迎えた。

手のひらを返したような中国ブーム
2004年――、振り返れば、日中の経済活動がひときわ盛り上がりを見せた1年だった。在上海日本国総領事館が管轄する1市3省(上海市、安徽省、江蘇省、浙江省)に在留する日本人は3万人超に、上海日本人学校も生徒数1700人を超え、在外日本人学校としては世界第2位のマンモス校に発展した。上海を訪れる日本人はさらに増え、上海の在外公館や現地法人は視察団や企業単位の訪問者にはてんてこ舞いだった。03年のSARS禍を思うと苦笑せざるを得ない。あの時は、「それ見たことか!だから中国は危ないんだ」とばかりに、中国バッシングが再燃した。被害を水際でくい止めるため、会社によっては中国から帰国した日本人を隔離するなどの措置を取った。やむを得ぬ措置とは言え、人に会ってもらえないのは淋しかった。筆者を含めて誰もが中国から戻ったことを隠さなければならないハメになった。
ところがSARS一過の後には空前の中国ブームが訪れる。旅行先では上海がクローズアップされ、それこそ「上海を観光してきた」は日本ではちょっとした自慢話になる時代を迎える。現地駐在として派遣が決まれば、すでに「取った手柄」も同然に。まるで手のひらを返したかのような日本での中国ブームだ。かつてスーツにネクタイ姿が乗客の大変を占めた上海行きのエアラインも、若い女性客が目立ちはじめ、スタイリッシュグルメのディスティネーションとして人気を呼び始める。そして若者の格好の求職先ともなり、また不況色を払拭できない日本からの経済移民先に変わった。4大紙に中国語学習の教材の広告が打たれるようになり、「よほどの変わり者」でない限り目を向けなかった中国語も国民的ブームに昇格した。そして物質的にも豊かになった上海は、国際化とともにその敷居を低くし、大量の日本人の流入を可能にしたのである。日中交流の長い歴史の中では、72年の国交回復を機に到来したパンダブーム以来だろうと思うが、僭越ながらぜひこれを機に中国の観光地やグルメだけでなく、中国人という私たちの隣人にも目を向けてほしいと思っている。

励ましのエールは中国人から
筆者自身、上海在住は8年になる。仕事柄出会いも多い(否、人に会うのが仕事だ)。だが「自分ももっと頑張らなくちゃ」という励ましのエールはいつも中国人からもらっていた。身近な例で言えば、焼き芋売りや野菜売りだ。早朝みかんを山積みにした大八車を追いぬく。国際企業が集まるオフィスビルに自転車で通うというのは、なんともチグハグな通勤スタイルであるが、この通勤では常に原点というものを痛感させられている。1キロ当たり2元で仕入れて、4元で売る。みかん1個にすれば利益は「毛」単位でしかない。それでも売る。「高い」だの「負けろ」などと叩かれながら。戦後日本にも見られたであろう、生存し得るための最も原始的な姿がここにはある。古羊路から古北路に抜けるこの一角はすでに高級マンション群が立ち並ぶ、上海でも所得水準の高い外国人が集まるエリアだが、このたった10分の道のりには、一家3人を支える父親の大八車をこぐその息遣いが、今でも感じ取れるのだ。
世知辛い世の中だからこそ、たまの美談にぐっと来るのは筆者だけではないはずだ。「金の切れ目は縁の切れ目」というのは、諺ではなく現実。人助けだけでは自分が飢え死ぬ。誰もが一分一厘でも得したいと思い、この冷や飯食いから脱却したいと思えばこそ、他人を蹴落とす。上海にはチャンスがあるのは確かだが、そのチャンスは「カンダタが上ろうとする蜘蛛の糸」のように細くはかない。だからこそここ上海では“作られた美談”も少なくないのだ。私たちのような職種であれば、美談の裏の素顔を見極めることがひとつの仕事になる。一度きりの出会いが大多数を占めるなかで、ようやく得た一握りの友。後半は筆者の、2004年の心に残る中国の友人との出会いを紹介したい。

日本留学帰国組が上海を変える
日本から帰国した留学生たちの活躍。それは私たちの想像以上に地元社会に貢献し、日中の交流をもますます太くしている。医学界が好例だ。上海はすでに最先端機器で満たされ、物質的には「ないものはない」ともいわれるまで発展した。それに反比例する形で露呈するのが、人道なき医療である。「キャッシュレス」で済む日本人の海外旅行者保険を巧みに利用し、ありもしない病名をうたい、高額な検査機器を使わせる。某医院はMRTをドイツから購入、その借金の穴埋めに外国人の保険を使っている。外国人と見ればすぐ入院させるホテルのような病院も動機は同じところにある。地元民が通う病院ともなれば別の次元でひどい。まずは衛生管理の徹底が待たれる。上海市内ではここ一年で医療機関が一気に増えたが、これは競争をもって医療水準を引き上げるため。技術面での牽引役が日本留学帰国生たちだ。
患者中心の医療で知られる歯科医師・劉佳さん。97年から東京歯科大学院に留学、「できるだけ抜かない、削らない」という最先端の技術を学んだ。劉医師の場合、何より日本で出会った博士がよかった。前述にある「歯はできるだけ残す」というポリシーは真坂信夫博士から受け継いだものだ。そして劉医師の根底にある医学のなんたるかは「大医精誠」に込められている。技術を極め、患者に誠を尽くし初めて医者として大成する――。志ありきの医師、正直筆者にとって劉医師が初めての出会いだった。現在、日本では10万人の中国人留学生が日本に学んでいるというが、どうか良心ある名教授に出会ってほしいと願うばかりである。
中国資本の対日進出というテーマで取材中、上海の帽子メーカー幹部、陳最新さんに出会った。その後、流暢な日本語と洞察力の鋭さに感銘し、弊誌『SUPERCITY上海』で半年間ご執筆頂いた。同社も対日進出を決心した数少ない中国企業だったが、当時日本の規制でがんじがらめとなり歩みが進まず、痺れを切らし、開拓先をアメリカにシフトさせたという経緯を持つ。中国人の目に映るのは、日本の奇怪なる制度だけではない。陳さんの話からは、発注内容の変更とか、納期の突如の変更だとか、“日本のわがまま”が赤裸々に飛び出した。商売とはいえ、よくも辛抱強く耐えているなと感心する。中国に日本企業の下請工場は何万社とあるだろうが、中国側の言い分はなかなか表に出てこない。日中両国を理解し、視点の中立を維持しようとする陳氏は、日本人が持つべき中国人朋友のひとりだろうと思う。
易解放さんは弊誌03年7月号で「今はなき息子の、緑化への夢を背負う」と題したインタビューで取り上げた。91年から日本で生活をする易さん一家、ある晩、内モンゴルの砂漠化のテレビ番組を見て、21歳の息子がこう決心した。「お母さん、砂漠の緑化活動、本気で取り組みたいね」。その言葉を最後に2週間後、息子の睿哲君は交通事故で帰らぬ人となった。易さんが悲しみからようやく立ち直ったのはその3年後のこと。息子の夢を背負い植林活動の一歩を踏み出したのだ。その後、易さんが立ち上げた特定非営利活動法人「グリーンライフ」を紹介したところ、日本人駐在夫人の間でも支援の輪が広がり、日本の読売新聞にも取り上げられた。易さんからは身に余るほどの感謝を頂いた。昨年は無償で編集の手伝いも申し出て下さり、対価を度外視し、丁寧に翻訳作業をこなして下さった。本当に頭が下がる思いである。

易さんのひたむきさもさることながら、以下に紹介する劉教敦さんはそれに輪をかけた努力の人である。日本に留学経験のある劉さんには「中国の農民にバイオ技術を」と言う壮大な夢がある。自身が文革中農村に下放されたことは無関係ではないだろうし、またご自身にも中国の農業問題が諸悪の根源という認識がある。日本でひところ「HB−101」という植物の活力・活性液が話題になったことがある。安心、安全、しかも連作障害がでにくいこの商品を見込んだ劉さんは、それを農薬汚染がひどい中国で広めようとした。だが、その努力がなかなか実らない。目先の利益しか求めない農民にとっては「単価が高い」としか映らず、また地方政府は農薬・肥料の指定制度を設けており、流通ルートにも食い込めないためだ。文革当時は反革命分子として糾弾された劉さんは多少の苦労も厭わず、「誠」の一字のような人である。父親からは「誠実に生きる」ことを繰り返し教えられたそうだ。だが、その誠実さに付け入る悪党も多いのではないかと、筆者も傍らでハラハラしている。どうか今年は彼からの吉報が届いてほしいものだ。

だからこの仕事はやめられない
日本では中国人の生保レディも少なくないとか。周小異さんもそのひとり。彼女は双子の姉妹で姐は周大同。つなげて読むと大同小異。ふたごにつけたその名前はユニーク極まりない。彼女の13年に及ぶ生保レディとしての歩み、その経験談は泪をも誘う。ひとりの働く女性として、また母として、日本人男性に嫁いだ妻として。日本という異文化の中で、片言の日本語を駆使しながら保険のセールスを行ってきた。先輩オバチャンのいじめにも遭う。一日の訪問件数500件、ダメにした自転車は3台。日本式営業の魂を中国人が受け継ぎ、今ではトップセールスに君臨したというサクセスストーリーだ。このガッツに筆者の体に久しぶりに熱いものが湧く。詳細は創刊したばかりの『SUPERCITY CHINA』2月号に譲るが、忘れていた「頑張り」は、筆者自身、こうした取材を通じて取り戻している。取材後に残る理屈を超えたすがすがしさ、これがあるから「また今年も上海で頑張ろう」という気になる。