中国レポート(19)
中国の思い出
元サントリービール(上海)有限公司総経理 石川 傳    
 
 1984年、サントリー鰍ェ中国初の中外合弁のビール会社を、江蘇省連雲港市に設立した時、中国のビール生産量は年間300万頓でした。当時の日本のビール生産量の約半分です。その後、中国の経済発展と共にビール生産も急伸し、現在3000万頓を超えています。世界最大です(2位のアメリカが2400万頓)。
 私はサントリー鰍ノ在籍していた、最後の17年の内、途中日本に戻った時期もありますが約10年間、中国に駐在してビール事業に関わって来ました。その間に経験した忘れられない事を紙面の許すだけ、此処にご紹介したいと思います。

実事求是 

ケ小平の国家指導理念として90年代、中国至るところでよく目にするようになりました。
 84年始めて赴任した、連雲港市には、日本人は私と若い同僚の2名の外は、解放前から居られた看護婦の方一人を合わせて3名だけで、心細い限りでした。長期戦には体力勝負だから、暇な時にサイクリングで体を鍛えようと街に出かけ、殆ど通じない中国語で自転車を購入しました。中国で最も人気のある上海製のフェニックス号です。回りには日本人を見たい中国人の野次馬が黒山。皆が『修理!,修理!』と言っています。何の意味かわからないまま、自転車に乗ったとたん意味が分かったのです。ハンドルも車輪もぐらぐら。最後の仕上げは『修理処』でやって貰うのです。
 ケ小平はマルクス,レーニンの理論の討論は暫く止めにして現実に沿って物事を処してゆこう、と国民に訴えたのです。私は中国の市場品質の現実をこの自転車購入で、強烈に知らされたのでした。中国で仕事をするに当たって、日本で徹底して教えられていた、データに従って仕事をする、正しいデータ、情報の共有化といった品質管理の考えを行動指針にする事に決めていました。

オフィスの大部屋化

中国のオフィスは課単位で小部屋になっています。担当者が出張したりすると、部屋、書類棚全てに鍵が架かっています。必要な資料は担当者が戻らないと、見ることが出来ません。
 『情報の共有化のために大部屋にしたい。』とある日の幹部会で発言しました。週末が明けて出社すると、壁が取り払われていて、机も再配置されて大部屋が出来上がっていました。中国の建物はレンガを積み上げた上をモルタルを塗っていますので、壁を取り払うのはいとも簡単なのです。ビール製造プロセスに沿って種々チェックのための分析をしていますので、其れを掲示板に図示するようにしました。時系で現状を把握するためです。いつもこの図の前で討論をしました。

 失敗もありました。製品になったビール瓶を手作業で10本単位で束ねていました。瓶の弱さも手伝ってよく割れました。破瓶率を管理させました。グラフ化したとたんに10分の1位に減ったのです。私が満足していると、その後はずっとほぼ同じ数字が出るようになりました。ある時、バラツキがないのはおかしいと思い確かめてみると、担当者はわたしが満足しているのを見て、其れからは正しくない数字を書いていたのです。この大部屋の事は当時、日本式大部屋として評判になり、新聞社も取材に来たりしました。

ビール大麦品種育種改良中心

 1980年代の合弁企業は、各社で外貨バランスをとる事が、しつこく、厳しく要求されていました。つまり何かを輸出してドルを稼がなくてはならないのです。わたし達はビールの原料である麦芽を輸出して、外貨を稼ぐ事にしていました。 品質、価格の両方で国際競争力のある、麦芽を造らなくてはなりません。当時の中国で使われていたビール大麦の品種は古いもので、品質が相当に劣化していました。大麦の品種改良を決断しました。こうして連雲港市農業局との合作で、表記の大麦センターを設立したのです。2町歩の土地に試験田、分析設備を設置し、育種の専門技師を南京の大学を出た若手中心に採用、日本からも、専門家の派遣をしてもらいました。JICA(海外国際協力事業団)から資金援助も頂きました。

経験の浅い若者中心のセンターでした。畑に野ウサギが侵入して折角の麦を食べられたり、放牧されている水牛が侵入して畑を荒らしたりされ、結局、二町歩の畑をレンガの塀で囲んだものです。
 育種のスピードを上げるため、南の昆明や北の東北の研究機関に一部の栽培を依頼したりしました。交通事情の良くない当時の遠距離の出張は冒険談の連続のようでした。90年に入り此処で開発された大麦KA四号は江蘇省で広く栽培されるまでになっていました。みんなの苦労が稔ったのです。対外開放担当部長・谷牧さんにお願いしました『ビール瓶の品質向上は国家の急務です!』

 ビールを生産し始めて、瓶の品質の酷さに泣かされました。『瓶が割れ易い』『瓶口が小さかったり、瓶の首が湾曲していて、ビール充填機にマッチしない』『瓶口がフラットでないため、王冠が合わず密閉できない』等でビールの損失はでるし、設備は痛むし、怪我人は出るし、まともに仕事が出来ません。
 そんな時、上記谷牧部長が合弁企業を励ましに来てくださったのです。氏は解放直後の連雲港市市長だった人です。『合弁企業の発展を重視している』『中美合弁の北京ジープはうまくいっている』『サントリーも頑張りなさい』に対して私の切実なお願いでした。

供電局へトラックいっぱいのビールの礼品

 90年代後半、上海で仕事をやるようになって、私も少しは中国の事を理解していました。供電局に仕事をお願いする難しさです。虎の供電局の影口があります。連雲港市の時はまだ怖いもの知らずでした。新工場が完成し、後は電気容量を上げるため電力の切り替えだけになり、供電局にお願いし無事短時間で完了しました。翌日、供電局にお礼に参上する事にしました。そうだお礼にビールを少し持って行こうと思い、中国人の副総経理に五箱ばかり持って行くと伝えました。『それは余りに少ない。恥ずかしい事だ』と言い、トラック一台分は必要だと主張するのです。中国の一面を知った瞬間でした。

百年の計は人を育てる

 上海に隣接する昆山市に建設したビール工場は古い設備を完全に撤去した新工場です。工場のオペレーターも、ビール製造の技術を勉強した新卒者を採用する事にしました。
 武漢に中独合作のビール専門の学校があります。80年代に其の設立の事は耳にしていました。校長のA.W氏はミュンヘン工科大の卒業生で、ビールのプロです。98年に卒業生採用のご挨拶に、氏を学校に訪問しました。80年代から奥様と学校内に住み込んで、中国人ビール技師を養成してきた人です。其のことに先ず感動を覚えました。たまたま私も若い頃ドイツで氏と同じ大学でビールを学んだ同学の気安さもあり、中国の古い言葉:『1年の計は穀を植え、百年の計は人を植える』」と、心からの敬意を表して乾杯をし、2日間の交流を楽しみました。今、氏の薫陶を受けた多くの卒業生が昆山のビール工場で活躍しています。

橋を架ける

 上海サントリーのビール工場は、浦東の沈杜路の田園の中にあります。最近段段家が建て込んできました。西側の境界に黄浦江から引き込んだ、運河が流れています。工場に、石炭や麦芽などの資材を運ぶ時に使われます。
 工場を拡張するため、運河の対岸に瓶置き場を新設しました。そこへ往来するための橋を架けた時の事を紹介します。どんな橋にするか、モデルにできるような橋はないだろうかと設計院に相談しました。そんなものは有りません。工場内の橋だから近所の橋を参考にする事にして、昼休みを利用して、黄浦江まで5kmほどの運河沿いの道をカメラを手にして散歩しました。いろいろな橋があります。水の上からの景観を意識しているようです。
 無難なモデルを選んで工場に架ける橋としました。私のささやかな楽しい思い出です。其の時の感想ですが、橋はそこを渡る人は、道の延長と考えているので、橋がどんな姿をしているかは意外に注意していません。設計者がそれなりに苦労している割に報われていないようです。例外的に観光地の橋は写真の対象になったります。

 思えば、長い間、中国での仕事を通じて、日中間に小さな橋を架けてきたのだと思います。経済交流協会の皆様にも夫々に思い出の橋をお持ちでしょう。橋を通る人は橋の事を殆ど意識していません。必要な時にメンテナンスをやって貰えば其れでよいのです。これからも日中の間にもっと、もっと大きな立派な橋が架け続けられる事を期待しています。