今年は日中平和友好条約調印30周年であり、中国の改革開放政策がスタートして30年になる。この30年の中国の政治経済社会の驚異的な快進撃は後世の歴史家が必ずや特筆することになるであろう。 「ジャパン
アズ ナンバーワン」を書いたエズラボーゲル教授は1978年10月のケ小平氏の訪日活動が「改革開放政策」への転換に非常に大きな意味を持ったと評価されている。日中平和友好条約調印を記念しての訪日は昭和天皇との会見や首脳会談等トップ外交を展開すると共に、新日鉄、日産自動車、松下電器の企業参観が「改革開放政策」への大転換を決意する強い動機になったのであった。新幹線で東京から大阪へ移動中、そのスピードを「まるで自分の背中が鞭打たれているようだ」と改革開放への責任感を表現されている。
10月26日の松下電器テレビ工場の参観では松下幸之助創業者に「中国の近代化を手伝って欲しい」と要請し、松下幸之助氏は「21世紀はアジアの時代になる。日本と中国は手を取り合って世界の平和と繁栄に貢献すべきであり、松下電器は一企業であるけれどもできるだけの協力をしたい」と表明した。帰国後即、ケ小平氏は三中全会を開催し、イデオロギー中心の国づくりから、現場、現実、現情に基いた「改革開放政策」へ大転換する決定を行った。
1968年から台湾松下で2年、1970年からインドネシアの合弁会社ナショナルゴーベルで9年、海外中国ビジネスマンと多様な経営活動を経験することができ、ようやくジャカルタから北京へ転勤できた幸運をひそかに神に感謝した。学生時代から中国で仕事をすることを志していたので、ようやく39歳にして自分の夢がかなった。1979年5月北京空港で日中経済貿易センターの前身、国際貿易促進協会北京事務所の南条氏に出迎えていただき、車中「北京は森の都ですよ」と意外な説明を受けて北京飯店に到着した。オフイスビルは未だできておらず、中日友好協会と関貿促の支援を受けて、工商行政管理局の日系企業としては第一号となる正式な許可書を取得して、北京飯店に職住一体の松下電器駐華連絡事務所を開設した。国交正常化以降、周恩来総理の、台湾と関係のある企業とは取引しないという周四原則が存在していたために、松下電器は中国への取組みが大手競合メーカーに比し、遅れていた。仕事を始めるに当たって、中国の関係者は会う人毎に、「後来者居上―後から来た者が追い越す」と言って励ましてくれた。
翌6月末には松下幸之助創業者一行が中日友好協会の招請で初訪中した。私は当時の中日友好協会副会長であった孫平化氏とタラップの下でお迎えした。宿舎の北京飯店特別貴賓室に入った松下幸之助氏は窓の外の長安街を眺め、街灯の電線が地下に埋め込まれているのに感心し、行き交う自転車にランプがつけられていないことに驚き、卓上の七宝焼の灰皿に興味を示された。
夕方には隣の中山公園の野外劇場で京劇の孫悟空を楽しまれた。翌朝、ケ小平氏の会見の冒頭、松下幸之助氏は孫悟空観劇のお礼を述べ、「経営というのはあの孫悟空のように変化に対応することですね」と言った。ケ小平氏はすかさず「日本の戦後復興は松下さん、稲山さん、土光さんのような多くの孫悟空が活躍されました。これからの中国の改革開放は多くの孫悟空が必要です。孫悟空づくりを手伝ってください」と言われた。それから話がはずみ、中国の電子工業の近代化を図るために、日中聯合電子工業合弁会社設立の構想が語られた。
ケ小平氏の指示で、国務院の局長クラスの幹部が数百名集まり、松下幸之助氏の経営談義を聴講した。松下幸之助氏は、中国の人々は勤勉だから日曜日しか休日がなく、買物をする時間の余裕が無い。産業振興には消費の拡大が必要だ。週五日制を取り入れることが必要だと提案した。実現したのは15年後のことであった。又「塩の味は舐めてみないと分からない。経営もやってみないとわからない」と話すと、会場から「毛沢東主席も梨の味は食べてみないと分からないといっています」という声がかかった。松下幸之助氏は帰国後、通産省の担当官を訪れ、「中国の近代化を応援するために民間も出資するから、日本政府も資金援助をするべきだ」と熱弁をふるった。改革開放政策以前には、中国は外債も内債も無かったという。日本政府は中国政府と協議して、一部無償援助、技術援助を含むODA(政府開発援助)を提供することを決定した。1979年12月には大平総理が北京へ来られ、正式に40数項目の電力設備、港湾設備等のインフラ建設の為の資金提供が開始された。北京の民族飯店に在京の大使館員や民間企業の代表が数十名招かれ、大平総理の講話を聴いた。一国の宰相というより、民間企業の経営者のような実務的な語り方であった。「日本は貿易立国である。現在は欧米が貿易先の主体となっているが、将来は中国を初めとするアジアが主力になってくる。民間企業の諸君は中国の近代化を応援して、大いに日中貿易の発展に努力して欲しい」と励まされ、感激した。
昨年度の日本の最大の貿易相手国は中国であり、中国を含むアジアの貿易額比率も40%を越え、欧米を凌駕している。松下幸之助氏や大平総理の将来を見据えた予測と期待が民族の知恵と力を結集して、改革開放政策を推進した30年の積み重ねにより見事に実現されてきた。中国の30年の高度経済成長の歩みと共に、数々の仕事を経験できた自分自身の運命も好運であったと、今しみじみ感謝している。
2006年11月、山東省人民政府の招請により日中経済貿易センタ−の会員企業の経営者150名が、関西空港から省都済南市を臨時特別フライトで訪問した。済南市で山東省全体の投資誘致プレゼンテーションを聴き、3班に分かれて煙台、威海、緇博、?坊、臨沂、日照、青島の8都市を4泊5日で視察した。各地で熱烈な歓迎を受け、参加者は一様に山東省への理解を深め、山東ファンになった。
我々Bグループの一行が日照市を訪れ、新設の港湾設備を参観した折、予期せぬハプニングがあった。港湾局長が直立不動で「この日照港は石炭積出港として旧名を石臼港と言い、日本の対中ODA第一期分を活用して建設された。拡張部分もサムライ債によって完成した。日本政府と皆様の援のお陰です。有難うございました」と挨拶された。日本の対中ODAがあまり評価されていないという批判もある中で、思いもかけぬ嬉しい言葉であった。
日中国交正常化に当たり、周恩来総理が「日清戦争の対日賠償で中国は非常に苦しめられた。対華侵略は日本国民が引き起こしたのではなく、軍閥の責任であり、日本国民も又被害者であるから、戦時賠償は放棄する」と、毛沢東主席の了解の下に決定されたものである。大平総理は中国側リーダーのこの思いを汲んで、対中ODAの開始を決意されたものであると聞いている。我々日本人は戦後復興に当たり、世界銀行や欧米諸国の各種の支援を得て、名神高速道路や新幹線を建設することができたが、そのことを、この日照港の港湾局長のように謙虚に謝意を表してきたのだろうか?
松下幸之助氏がケ小平に「松下電器は一企業ですが中国の近代化をできるだけお手伝いします」と語った言葉は歴代の社長が引き継ぎ、150件に及ぶ技術合作の経験を経て、1987年に北京市で、カラ−テレビ用ブラウン管を製造する日中折半投資の「北京・松下カラーブラウン管有限公司(BMCC)」の設立にこぎつける。「国際競争力を備えた合弁会社のモデルケースを創る」と日中の関係者が全力を挙げて取り組んだこのプロジェクトは、当時としては最大規模の合弁会社であり、「絶対に失敗は許されない」と日中双方の関係者が「誠意、忍耐、信頼」の六文字で頑張り通した。1989年工場が完成した全景写真を当時の谷井社長が松下病院に持っていき、松下幸之助氏に「これが貴方がケ小平さんとお話になった合弁会社の写真です」と説明すると、嬉しそうに微笑まれたそうである。その数ヶ月後、松下幸之助氏は94歳の生涯を終えられた。その一ヵ月後にようやく品質性能合格の第一号完成品ができたのが6月3日であり、翌日6.4の天安門事件が発生した。このピンチを北京市指導層トップと関係部門、協力工場、工会(労働組合)の支援の下に、日本人出向社員と応援者の生命は保証するという前提で、日本本社の了解も得て製造現場を守り抜き生産を継続することができ、「風雨共舟」と日中関係者が協力し合って難関を克服することができた。その後も2003年のSARS騒動で、第二の天安門事件と覚悟して疑似患者従業員5名を出したが、全員で環境改善に取り組み、見事に切り抜けた。創業20周年を超え、薄型テレビブームで苦戦しているが、脈々と創業の精神が継承され、次なる発展に挑戦している。
改革開放の30年は疾風怒涛の時代でもあったが、今は唐詩に言う「千里の目を窮めんとして、更に上る一層の楼」の境地で踊り場に在り、これからは和諧社会―調和の取れた社会の建設を目指し、ひいては世界の平和と繁栄に貢献する国づくりに取り組まれるものと願っている。
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