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メディアにあまり関係のない現地の現場的体験は貴重なものだが、ときに「おやっ」とか「あれっ」と思うものに遭遇することがある。
「上海経済交流」誌は1989年天安門事件と浦東開発発表の最中に新装発刊されたので以後の情報は豊富に掲載されている。そこで本稿では中国の開放路線以後・天安門事件以前、すなわち1980年代の私の微々たる体験の中で「おやっ」と感じた2、3を記してみよう。
スーダン?
私がはじめて上海の同済大学建築学系に講義のため訪れたのは1981年秋のことであった。当時の中国は文革終息後まだ日が浅く、開放路線に転じたとはいえ経済的には厳しい時期で、上海の街でも新しい建物は住宅公団か上海体育館ぐらいしか無かったものである。中国独自の資本と技術で造られた上海賓館もまだ無かった。
ところが同済大学建築学系に行ってみると、掲示してある学生作品はなかなか達者なものだし、年配教授もハーバード大卒、ウィーン工科大卒とかいう方々や中にはル・コルビジュエのアトリエで修業していたという方もいて相当高いレベルであることが予見された。
そのうち比較的若手の教官達と話をしていると、ここの教官は2年程度の任期でアフリカのスーダンへ交代で赴任し技術指導を行っているという。そしてスーダンから帰国したばかりの教官からは、その方が現地で設計施工の指導をした建物の写真を見せてもらうことができた。白っぽい小振りの建物ながら当時の上海には無かった洒落た雰囲気のものだった。
これは全く意外なことである。私より一足早く上海の大学に講義にきていた電子工学の先生は「ずいぶん遅れてまっせ」ということだったが、同済大学建築学系は違っていた。そもそも、途上国へ技術指導している大学に私のような人間が出張講義しにいく意味があるのかとさえ思われたのである。頑張っているなあ、というのが素直な気持ちでもあった。
スーダンはエジプトの南、ナイル河の上流に位置して国土の面積は日本の約7倍、1956年独立したものの北部のイスラム政府と南部の非アラブ系連合体との間で内戦が続き、72年から83年の間は停戦中であったというから同済大学教官が赴任していたのはまさにその時期である。しかしその後も20数年にわたって内戦が継続、2005年ようやく南北包括和平(CPA)が成立した。
南北境界付近には油田地帯が存在し、現在中国大手石油企業3社が進出している。中国人労働者も多数働いており、東部紅海沿岸の積出港までパイプラインの敷設も行われているが、石油収入は北部政府(首都ハルツーム)の有力財源となっているという。
他方スーダン西部のダルフール地域では住民特に婦女子に対する暴力等の非人道的行為が凄惨をきわめ、国連の推定では約20万人のアフリカ系住民が殺害され、約200万人〜250万人の難民・国内避難民が発生している。ただしハルツームは平穏で建物建設も続いている。
同済大学建築学系の教官派遣は首都ハルツームに行われたと思われるが、何時まで行われたかは定かでない。ただ中国政府が早くからスーダンとの交流に関心を持っていたのは確かであろう。
ココム?
1986年から88年にいたる3か年、国連地域開発センター(UNCRD)と中国関係部門共催で無錫地域経済社会開発展計画策定作業が現地で行われた。現地関係部門の中堅管理者の研修プログラムであったが、私もUNCRD側の一員として参加することができた。
現地での各種計画作業や手法のデモンストレーションのためパソコンが必要であったが、現地関係部門にIBMパソコンはあるということだったので、初年度日本からは日本IBM社のソフトをUNCRDの職員が持参した。しかし実際に起動しようとしたが全く動かず、結局米国IBM社版のソフトでしか起動しなかった。WindowsのようなOSがまだ出回っていない頃である。
2年度、1987年夏には日本で手慣れたNECのパソコン2台とそのソフトを日本から持参することになった。ところが伊丹空港で中国へ出国する際、空港税関はパソコンの中国への持ち出しを頑強に拒んだ。UNCRD職員は国連公務員としてのパスポートを示して趣旨を説明したが駄目。帰国時に必ず持ち帰る旨の一筆をいれてやっと通過することができた。空港税関の説明では「32ビット以上のコンピューターを共産圏へ輸出するのは、ココムの規定違反になる」とのことだった。
ココム(対共産圏輸出統制委員会、1994年解散)の規定とはいえ空港税関の説明は違和感があった。なぜならば、中国無錫には米国製パソコンが存在しているのを前年実見しているのである。さらに数年前には上海の科学会堂で米国IBMパソコンの公開デモンストレーションを実見していたのである。そして中国各地に米国IBMパソコンが出回っているのも知っていた。
ここで脳裏に浮かぶのは、1987年3月メディアに発覚した「東芝機械ココム違反事件」のことである。東芝機械は9軸同時制御の船舶用プロペラ工作機械を2軸制御と偽って通産省の輸出許可をとりソ連造船所に輸出していた。2軸制御はココム違反にならないが9軸制御は明らかにココム規定違反である。この辺の事情は手嶋龍一の著作などに詳しいが「この東芝機械製の工作機械を使用して製造されたソ連潜水艦は水中音が著しく静粛になって行動補足が難しくなり米国の国防に大きな不安を生じさせた」として米国内で対日批判が噴出した。
こうした動きは日本でもメディアに大きく取り上げられていた。推定であるがこの反響の大きさに日本国税関はココム規定に敏感になっていたのではなかろうか。
しかしソ連崩壊後の情報公開により、輸出された工作機械は潜水艦の静粛性改善には無関係であったことが判明している。とすると米国の声高な対日パッシングは一体何だったのか。さらに米国IBMパソコンは中国でフリーに出回り、日本からのNECパソコンの中国持ち込みは難しかったのは何であったのか。 因みにココム本部はパリの米国大使館の中にあったという。ココム解散後、現在通常兵器関連の国際輸出管理は通商ワッセナー協約というものによっている。
早春賦?
思えば1980年代はまだ早春の時代であったのかもしれない。
「春は名のみの風の寒さや」(早春賦)。
前記UNCRDの作業中の1987年1月、胡燿邦総書記の辞任劇が発生した。辞任理由のひとつに胡燿邦氏は外国人に国内事情を話しすぎるといったことが伝えられていた。正しい理由かどうか私にはわからないが、UNCRDの作業にも影響が少々現れた。
現地での作業にはさまざまな資料、統計数字、地形図、等の情報収集が必要となる。前年の1986年度作業では、UNCRDメンバーから無錫市側メンバーへの資料要請はごく気さくに行われ、メンバー同士でやり取りが行われた。オープンかつフレンドリーなものであったと思う。1987年夏になると、資料請求はUNCRD側責任者のサイン入りの書面で市統計局長あてに一括して行う事とされた。資料提供は市統計局長のサイン入りの書面で各項目毎に可、不可が記され、厳しさ感が滲んできた。もちろん各項目毎受領者の検収サインが求められた。
資料提供が得にくいものに、戦略的な性格に関わるものと、広域的性格に関わるものがあった。新鋭の火力発電施設の資料などは実見できるのに資料提供を受けられなかった。行政の縦割り構成にも原因があった。
正確な実測地形図は、無錫市街地周辺のものを初年度に提供を受けていたので作業原図を日本で作成しそのコピーで図面作業が行なえた。しかし長江沿岸の地形図等は提供されなかった。米国NASAの商業衛星からの電波は日本の宇宙開発事業団で受信していたのでそのテープの活用をUNCDRが思いついた。日本での受信テープには、西方は南京くらいまで入っていたのである。事業団のテープを借り出しその情報処理を筑波大学の学術情報処理センターの先生にお願いしてカラーの大型フィルムを入手することができた。ただし商業目的のものでメッシュ間隔が粗いため線的対象には少し弱かった。
さもあれ、すんなり地形図が提供されていればこうした体験はできなかったかもしれない、と思えば愉快でもあった。
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