おじゃまします(52) 第二部<わが社の中国ビジネス−9>      
日新運輸株式会社(日立物流グループ)        
リポーター 南島順子 
通関業から運輸業へ
 日新運輸株式会社の設立は1949年、中華人民共和国の建国と一緒である。戦前上海で通関業をやっていた創立者の奥川馬之助が、終戦で資産をすべて没収されて引き上げ、大阪の安治川で現在の会社を立ち上げて以来、70年代の終わりまで一貫して通関業として会社を発展させてきた。
 日中間にコンテナ船がなかった70年代後半までの運輸状況は、アパレル製品の輸送にとって受難の時代だった。北海道の苫小牧港についた材木の下から衣料品のカートンがぺちゃんこになって出てきて、それは大阪の繊維商社の製品だったというようなことが多々あったという。無事大阪港に着いたとしても、艀(はしけ)で荷をとりに行き、倉庫に入れて水切り、1週間も10日もかかってやっと通関出来た。
 そこで日新運輸が乗り出した。中国対外貿易運輸公司と業務提携し輸送のコンテナ化が図られる。コンテナだと荷物も傷まないし、とどこおらない、何よりも搬入が早い、2、3日で通関も出来る。アパレルは生鮮食品と一緒でスピードが命。船積み情報がわかって、荷も大阪港に上げられるようになった。特に日中間の物量も増えたというのも大きな要素だが、日中間の情報と品質管理のシステムを最も早く構築できたのが日新運輸であり、今では輸入7割の内9割以上がアパレル、しかも中国。中国なくして現在の日新運輸はないと、取締役で事業企画本部長の河田洋一氏は語る。
 さらに80年代後半には上海、昆山、蘇州、黄石等に名古屋、岐阜の縫製メーカーがあいついで進出したのを受けて中日国際輪渡有限公司と契約し、当時走っていた鑑真号にコンテナスペースを確保。上海―日本間のフェリー輸送が開始。コンテナ20フィートで17万円程度のを毎週5本契約し徐々に12本まで増やす。スペース不足がでてくるときもあったが、一度も違約金は払ったことがないという。

信頼関係を構築

 92年に日系初の国際貨運代理免許を取得して設立した上海遠新国際運輸有限公司現総経理の薜疆さんは、若い頃日中友好協会に留学した経験を持つ。この彼が免許取得のための人脈を持っていた。上海遠新を作るには上海の投資工作委員会が窓口、そのえらいさんが、91年入社の薜疆さんの大学の先輩で上司だったことがひょんなことから判明。さっそく上海市政府副市長や投資工作委員会の主任を紹介してもらい、ようやく許可が取れる見込みがついた。ところが申請をして何ヶ月もたつのに一向に許可がおりない。調べてみると担当者のところに書類は止まったまま。担当者がOKしなければ動かないのが当時の中国社会。
 そこで河田氏は考えた。担当者の自宅の住所を調べ、外国人はまだ不審人物と見られる時代だったからアルバイトの中国人通訳を伴い、夜間、自宅に訪ねて行ったのだ。電気のない真っ暗な階段を上がり、子供には電池で動くおもちゃ、奥さんには当時珍しかったネスカフェのコーヒーセットをお土産として持参。実情を懸命に訴えた。すると翌日から書類が回り始めた。
 日新運輸の合弁企業である上海遠新の総経理は中国人である。日系企業だからといっても仕事の場所は中国、お客も中国人、中国でビジネスをしている中国の会社である。中国人は中国人同士で仕事をするのが一番捗るのだ、というのが河田氏の信念。日本の企業の悪いところは日本の本社の許可がないと何も出来ないで本社ばかり見ているところだという。輸送などについて決断を下すとき、まず総経理が本社に伺いをたてる。次に本社はユーザーに聞く。話が決まるまでに半年1年とかかり、さらに「ちょっと心配だから取扱い量は徐々に増やしましょう」となって、また1年かかる。現地に総経理をおくのだったら任せてしまうべきと思うが、これを任せないのが日本の企業、だからいくら良いハードや良いシステムを持っていってもなかなかうまく仕事が進まないのだ、と河田氏は嘆く。
 企業はやはり人が主役、円滑に仕事を進めるためにしなければいけないことはしなければいけない。人と人との人脈だからうまく付き合っていくためにはお金も使う。そういう世界だったらそれに染まるしかないこともある。
 未収金問題なども結構出てくる。取りに来たら払わなくちゃならないけれども、わざわざこちらから払ってやる必要はないと皆が思っている。今は契約を守らないということも昔ほどひどくはないが、まだ足を運んでもらいに行かなければ払ってくれない会社もある、請求書だけ送りつけて入金を待っているだけではもらえないのは当たり前。だから未集金があるところには、昔も今もかわらずに一軒一軒訪ねて回っている。

流通加工業務へ第2のスタート

 着々と事業拡大を進めてきた上海遠新が流通加工センターをおき、検品検針の業務を開始したのは2001年だった。ここから日新運輸の第2の中国ビジネスがスタートしたのだ。中国国内で生産される製品1枚1枚の検品と検針、値段付け等を中国で行うことによって、流通をよりスピーディにしかつローコストな製品調達ができるようにと設立した。2002年には上海遠新に続いて青島にも青島海新達国際運輸服務有限公司に物流加工センターが完成、続いて大連、天津、蘇州、深?、栖霞と各地に設立、国際物流輸送の一貫化に乗り出している。
 97年に中鉄快運公司と提携し中国大陸鉄道網を利用して開始した船〜鉄道〜トラック輸送システムも円滑に進んでいる。特にトラック便は800kmや1000km程度の距離でも中国のトラック野郎はこだわりなく運んでくれるという。

中国の次は中国

 ところで今回お話を伺った河田洋一氏、49年生まれの70年入社というから、どうやら日新運輸と同じ境遇のようだ。85年頃から対中国事業に従事、87年から90年頃までは1年に200日以上が中国滞在というツワモノ。最近の中国出張例では2/7上海、2/9蘇州、2/10青島、2/13栖霞、2/14大連と中国各地を慌しく移動している。その河田氏は語る。
 「早くから中国進出をしていたが、当初はこれほど日本との関係が大きくなるとは思わなかったですね。天安門のとき、サーズのとき、大きな出来事が起こるたびに会社は大丈夫かなと思いはしますが、中国はリスクが若干あるとしても、他の国に代えられるものはないと思っています。中国の次はやはり中国ですよ。会社内にも中国一辺倒でいいのかといった声もありますが、労働集約型の産業を受け入れられる国がそうあるものではありません。納期が一番大事だし、余裕があるような商品は作っていませんからね。工賃も少しずつ上がってきていますが、奥地に行けばまだまだです。しかも奥地に行けば行くほど我社のような会社の存在価値が出てきます。日新運輸は客がいるところ、日本の企業が進むところどこでも行きますよ。」
 河田氏の列車の旅、飛行機の旅でのトラブルは、行方不明騒ぎ、拉致騒ぎなどなど、数えあげればきりがないそうだ。今日もまた河田氏は中国国内を走り回る。中国のどこかの駅、どこかの空港で、トランク一つ引きずって悠然と歩く河田氏の姿を見つけたら、ぜひ一声かけてお知り合いになっておきましょう。もし大きなトラブルに巻き込まれてどうしようもなくなったときでも、河田氏はケロリとした顔で問題を処理し、日本まで連れ帰ってくれることでしょう。ただしコンテナに乗せられて荷物扱いで帰国ということになるかも・・・。