なみかわかほこの「私と中国の30年」(7)    
考え方の違いで混乱の連続(理論的な説得)
 天安門事件が発生した1989年春、上海に株式会社ダイケイ(本社大阪)の子会社を設立するための現地駐在が決まった。
 社員総数目標は千人体制、若い女性の多い企業です。

 当時、上海近郊に進出している日系企業はまだ少なく、しかもこの年の6月4日に天安門事件が勃発、かなりの日本人が日本へ引き上げる事態が起こりました。
 そんな中、当社は動じることなく上海にとどまり、中国側を驚かせる事になりました。
 当初は壱百人単位で職員を入社させており、当社は上海では名の知れた企業になりました。
 面接、テスト、身体検査、入社教育と続き、日本でも人事は未経験だった私が、この大きな仕事をこなすには四苦八苦しました。
 合弁先から手伝っていただいたおかげでなんとか進められましたが、想像もつかないトラブルも多々ございました。

 当時、私は人事担当者と二人で病院に行って社員の身体検査を見守っていました。
 例えば、身体検査の時、医師に平気で合格を頼む人がいたり、コンタクトレンズを着用して矯正視力を裸眼視力として記録してしまったために、入社して間もなくその娘から「仕事のせいで視力を落とした」と賠償請求を受けた事もありました。
 この一件は、本人の他の資料を見て、もともと視力の悪い娘だった事が判明。
 本人も言いがかりだったことを認め、一件落着となりましたが、それから私は間違った診断をした医師に聞くと、「コンタクトレンズをはずして、裸眼検査をするように指示を受けなかった」と言い訳をする。
 「この件を新聞に投書する」と言うと、院長が出てきて、やっと手落ちを認める始末。
 また、採血の時は小さな窓口の向こう側から看護婦が腕を「ぐいっと」引っ張るので泣き出す娘もいました。
 私が院長に「もっと優しくして下さい」と頼むと、以後院長自ら採血してくれるようになる始末。
 この一年前の88年には新型肝炎が起こって、せっかく面接などで合格の者も最後の身体検査で不合格は10パーセントもあり、これも日本側の計画が大きく乱れた事もありました。

 しかし日本人という立場に加え、中国語ができたという事でいくらかスムーズに事なきを得ました。
 当時の私は相手国の考え方、やり方を知らなかったために不快な思いをしたり、させたり、させられたりしました。
 例えば、100人の雇用に対し400人以上の応募者があり、面接で一人に対し、三分で終わらせた事を日本本社にまで不満の投書があるなどでした。
 中国人は論理的に相手を説得するのを好むようで、私もずいぶん理屈っぽくなったと思いました。
 でも結果的には人と人とは話せば分かる。そのまま腹を立てて何も言わなければ解決はしないのだと思いました。
 雇用、解雇、査定、給料などの人事面の諸事情は日本より複雑でして、国の体制や労働法規も違います。
 
 こうした経験から私が導き出した結論は「解決できないことはない」という事でした。
 中国で会社を運営するには、中国人がよく口にする「上有政策、下有対策(違法ではない、融通を利かせる方法をとること)が重要。
 つまり知恵と戦略の出し方次第ということなのです。
                          (2003年6月出版「私と中国の三十年」より)