なみかわかほこの「私と中国の30年」(4)    
現実と想像の違いにショック
北京市民との触れ合い
 日本で、約十年間の通訳をして1983年、北京での駐在の話が決まった。
 これまで友好団などで中国へはすでに5、6回行ったことがありましたが、いつも団体で行ったのでほとんどは政府の接待でした。
 したがって、見学するところも宿泊のホテルも食事の手配もされており、日程も決まっていて自分勝手に街へ出歩く時間もなく、まさに表街道を馬に乗ってサッと走り去ったみたいなものでした。

 ところが、この国に来て、自分で各役所へ行って事務所設立の手続きや各地方への出張のための列車や飛行機のキップの手配をしたり、地方の人々の生活や市場などを見聞したりする体験を通して、初めて中国を知ったという思いでした。
 約十年間の通訳の経験があって、言葉も不自由しないし自分にはかなり中国を理解しているという自負がありました。
 しかし、中国(北京)へ来た当初は現実と想像の違いに相当なショックを受けました。

 当時は文化大革命も終わったところで(1976年)6〜7年も経っていたのに、その影が色濃く残っていたようで、当時の北京(中国)役所や貿易公司などはまだ昼休みがあって(昼休みは1時間半)効率の悪さはせっかちな日本人には理解に苦しんだものです。
 人々の働く意欲のなさ、責任転嫁、言い訳が目立ち、物はない、品質は悪い、タクシーはない、レストランメニューの種類は少ない、サービスは悪い(いや、サービスをしないといった方が正しい)、おつりも投げてよこす。

 特に女性の声が大きく(大体は中年)、お客の前でも大声で平気でしゃべっている。
 女性同士がしゃべっているのを聞くと喧嘩しているように思え、なにかを聞いても「不知道」(知らない)、なにかを買いたくても「没有」(ない)、なにかをしてもらいたくても「等一下」(待って)と平気で言う。
 外国人にもこの調子だから、中国人は愛想がないし、サービスがわかってないと言ってくれるのはまだよい方で、人によっては頭を横にふるだけのこともあった。
 お客様は神様という考えは全くないようであり感謝や謝罪の言葉がない、微笑みもない、丁寧な説明もない、なにをしても遅い。
 日本人としてはなさけない不快な思いが多くありました。

 当時の事を書くと、用紙が何枚あっても足りないほどです。イライラして口ゲンカもよくしました。
 日本へ帰りたいと思ったことは二度や三度ではありませんでした。
 駐在の約束もある、途中で投げ出すことはできないと自分に言い聞かせながら、我慢していました。
 どうして、中国はこうなの・・・と自問ばかりしていました。

 社会主義の国では、男女平等がそうさせるのか、共稼ぎの生活が女性を強くさせたのか、やさしい女性はあまり見られなかったある日、食堂で昼食を注文した時の事、私はいつもテレックスの原稿を書くか、女性雑誌を見ることにしていました。
 これもイライラしないため。
 突然ウェイトレス(中年の女性)が、二、三人私の前に来て、「その雑誌を見せてくれないか」と声をかけてきた。
 そこで、この女性雑誌は思いがけない役割を果たしたのである。
                         (2003年6月出版「私と中国の三十年」より)