はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
       
あのとき・あのころ
第一部
   
(7)初訪中(4)
 毛羽たきの輸入総代理店契約を締結する具体的な商談は立ち上がりから数量問題で暗礁に乗り上げた。
 ここに来るまで年間10万本の3年契約で日本総代理店になることが手紙でのやりとりで合意されていたのであるが、東京の原毛輸入専門商社がこちらの動きを察知して年間20万本の3年契約を提案、この輸入総代理店契約を横取りしようと北京に乗り込んで来るとのこと。

 いまと違ってメールやファックスはない、通信手段は電報か国際電話、航空便は香港経由で往復2週間はかかる。
 当時日本国内でも市外電話は上司の許可をもらってから電話局に申し込むという時代であったので国際電話なんてとんでもない話、結局は電報で<イサイ オマカセクダサレタク>と独断で5年間の漸増数量―10、20、30、40、50万本―合計150万本の契約で総代理店契約を締結した。価格契約でないのが逃げ道でであった。
 そのかわり公司に対して当初の3年―30万本の5倍の数量を売りさばくためにはそれだけの広告宣伝費が必要と説得して、輸入金額の7パーセントのバックマージンをもらうことで決着、このマージンが後に北京事務所開設の資金になったが、独断に近い契約で帰国後上司ともめた場合は腹を切る覚悟であった。

 調印後の酒宴のとき通訳から見覚えのない2枚の契約書が手渡されてサインするように督促された。
 羊腸(シープケーシング)と漆の輸入契約書であった。
 自動車以外の業界の事情に疎く、これらの商品が日本ではそれこそ“金の卵”のように取引されていた『配慮物資』とはツユ知らず、丁重にお断りした。
 ホテルに帰って他の商社の人に聞くと、アホ呼ばりにされた。せっかく往復の旅費の一助にと親切にくれているものを返すとは、あしたもう一度出かけて貰いなおして来い、という次第であったが、こちらも武士に二言はない、プロパーの商売で儲ける、と啖呵を切らざるを得なかった。

 初めて飲んだ白酒(パイチュー)「五糧液」の酔いがまだ残っていた。