はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
       
あのとき・あのころ
第一部
   
(43)「三来一補」
 いまでも委託加工などで耳にする「来料加工」などという言葉が日中貿易の現場で使われるようになったのは、いつごろからだったのだろうか。
 
 タクシーや電車の運転手、さらには家電の部品組み立て職場などで使われていた綿100の縫い手袋を上海の軽工業公司から輸入したのがわたしの中国貿易における手袋事始になるが、香川県白鳥町(現東かがわ市)は日本の手袋の主要生産地で、70年代初めからすでに韓国などへ委託加工が始まり、行政サイドも地場産業育成のため労働集約産業の海外適地調査を始めていた。
 地元では中卒の女子従業員に数年かけて手袋のミシンがけを教え込み、結婚で離職後も内職先として確保していたものだったが、周辺に家電などの大手企業が進出してくるとその縫製予備軍までもパートにとられてしまって、手袋のような労働集約業種では海外との取引が必要不可欠の状況になりつつあった。
 
 輸入した作業手袋の品質と取引の安定度に確信を覚えた地元の業者からの引き合いがわたしどもに殺到してきたが、狭い地域に密集する業者との相互バッティングを避けるため同品種の取引は断り、次の商品は同じ縫製でもアンゴラやカシミヤを素材とする高級婦人手袋になった。
 
 最初は見本の提供による「来様加工」であった、製造図面やデザインなどの提供もあった。
 つぎにボタンやマジックテープなど部品や材料提供の「来件加工」や「来料加工」となり、最終的にはミシンなども提供、専属加工場の内装までも含む投資の「補償貿易」(投資分を製品で返済)にまで踏み込み、日本から技術者が長期滞在して技術指導と品質管理をおこない、当社の上海事務所から社員が通訳で工場に貼り付けになる。
 
 おなじような「三来一補」の加工貿易をしていたわたしの友人から、きみとこはやり過ぎだよ、商社マージンだけで製造現場まで首を突っ込んでいたら採算に合わない、うちは原料の内地購入・業者渡しでそれぞれからマージンをとり、中国への輸出で稼ぎ、中国からの輸入でさらに儲ける。
 ひとつの商品が業者の手に渡るまで数回伝票を通すことで採算を維持しているが、きみとこは良くて輸出入のみ、それでは廻っていかないよ、と忠告を受けたことがある。
 
 いまは地下鉄も通り、上海郊外の一大密集地になっているシン庄は70年代の中ごろはまだ上海県に属する小さな田舎町=鎮に過ぎなかった。
 そこにこの手袋の新しい工場が出来たが、「委託加工」では人事権がない。
 日本から派遣された技術者が思うように仕事がはかどらないのにイライラしているところへ、早くノルマを達成した従業員が遅れた従業員に話しかけて仕事の邪魔をするのに血が上って、ついに持っていた裁断バサミをその足元に投げつけた。
 大事には至らなかったが、工場長が跳んでくる、従業員の一部から「日本鬼子!出去!」と非難の声が上がる。
 事務所で打ち合わせをしていた社員が駆けつけてきたころには騒ぎが大きくなって、収拾がつかなくなっていた。
 後日、この手袋会社の社長が上海に来て公司と工場、従業員に謝罪して取引は再開されたが、この人事権、経営の主導権が握れない「委託加工」の限界から、80年代半ばにこの会社は違う相手と合弁会社を設立することになる。
 
 高松空港から、あるときは徳島空港から何回この白鳥町に通ったことだろうか。
 地元の手袋業者でわたしを知らない人はいない、とまでいわれたこともあるが、韓国から撤退して遅まきながら当社との取引を申し込まれた地元有力企業には、残念ながらバッティングを理由にお断りをしなければならなかった。
 
 後日、昆山に合弁第一号を設立されたスワニーの三好社長、そのひとであった。