はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
       
あのとき・あのころ
第一部
   
(39)「おかげさまで30周年」誌から(2) 「北京」(1)
 電話が鳴った。
 「たいへんだ。すぐ来てくれ」。
 N商社の駐在員からだ。急いで行ってみると、食事仲間の各商社の駐在員が集まっている。
 「驚くなよ」
 とNが発泡スチロールの箱を開く。
 刺身やウニが目の前に花咲く。
 「お客さんが持ってきてくれた。食べようぜ」。
 みんなの手が喉から伸びた。
 一瞬途絶えてたざわめきが、再び歓声に湧く。
 
 実際、北京駐在を長くしていると日本食に飢える。
 Fは88年の8月から1年半も日本へ帰っていないのである。
 北京駐在は、64年の原田専務の2ヶ月に始まって、Y、Ns、Yz、Hと続いてきたが、68年ごろは広州交易会から次の交易会までの半年交代であった。
 
 78年4月、自動車部品の輸出が軌道にのり、常駐体制が出来たのであった。
 そして4ヶ月、8月にFが北京入りをした。
 機械公司との部品の商談が中心であったが、部品の年間協定も決まり、78年8月の日中平和友好条約が締結されると、そのムードにのって、技術交流がさかんになりだしていた。
 四人組追放直後でもあり、四つの近代化推進に燃えていたのである。
 
 ゴーゴーパーティの北京フィーバーもこのころのことだ。
 Fも、学生時代を過ごした気安さもあり、踊りに行った。
 しかし、日増しに忙しい毎日となっていった。
 技術交流のため訪れた日本のメーカーを迎え、週に4回も万里の長城へ同行したこともあった。
 こうして、技術公司、軽工業公司と輸出の窓口がふえ、それとともに新規の輸出入、工場改造プラントやアフターサービスも加わってきた。       (つづく)