はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
<あのとき・あのころ>第一部 |
(38)「おかげさまで30周年」誌から(1) 黄浦江(2)
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全中国が解放されて7年目の展覧会場は連日満員の盛況であった。
私はある日ひとりで会場から上海の町をくまなく見物に歩いた。
あちらこちらとこの年公私合営になったばかりの街を見て回っているとき、24年前にはここに中国難民が2〜300人2月の寒さの中でうづくまって居たのはここだったなあと気づき、道路の歩道に腰を下ろしていると珍しそうに4〜5人が近寄ってきた。
手帳を出しわたしは日本人だと書くと、2人ほどが走って行ったので何事がおこるのかと思っていると10人ほどの人を連れて来た。
そのなかで50歳くらいの人が私の横に腰をかけて、この人が日本の友人が来ているが言葉が通じないと言うので来たのです、大方日本語も忘れたのですが知っているだけ通訳しましよう、と言ってくれたので2時間ほどいろいろのことを話した。
そのなかで特に印象に残っているのは、24年前に兵隊で七了口に上陸して貴国の人々に悪いことをした侵略の話をしたときのことである。
その人は手を左右に振って、「毛主席は95パーセントの日本人はわれわれの友人で、戦争は5パーセントの軍国主義者がやったこと、兵隊にとられた貴方も我々もともに被害者です」・・・この言葉に私は胸が熱くなった。
「寝ている子を起こすなという日本のことわざのように、ここに集まっている12、3才から20才くらいの人びとはあの時のことは知らないのです」・・・とも言ってくれた。
私は感激のあまり立ち上がってお礼を述べ名刺を渡したが、そのとき私の周囲には200人くらいの人が立ちつくしていて1ケースの名刺はまたたくまになくなってしまったのであった。
それから私と中国との貿易のつきあいが始まり、この上海へなんど足を踏み入れたことであろうか。
今年の1月、当社からの古くからの友人―(株)シライ商店の専属の工場が上海に設立されたのを機会に当地を訪れた感慨を拙い詩に託してみた。
ご笑覧いただければ幸いである。
黄浦江
1980年1月 遊覧船の人となる
蘇州橋、揚樹浦岸壁を右岸に見る
両岸の姿は24年にして一変す
貨客船、魚雷艇、万頓の船あり、輸出、輸入の船、タンカー
大小の船の間を帆船が走る
氷雨に煙る造船所の船台から
火花が赤紫と散る
両岸の何十種類の船が
四つの現代化の歌を唄っているようだ
呉淞山が遠くに見える
あの向こうには宝山製鋼廠
杭打ちが聞こえてくるようだ
出船、入船繁く
長い海洋航路を終えて母港に帰る海の戦士は
風雨 寒さにめげず
舳先に立っている姿は海の勇者である
船は黄色の水を掻き分けて進む
船首の波切りは白波を左右に分かち
船尾のスクリューは
渦を巻いて航跡を残している
(筆者は山福(株)社長 山本庄八氏、「キャンペーン誌」80年5月号掲載)
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