はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
       
あのとき・あのころ
第一部
   
(36)サンファン(2)
 「おかげさまで30周年」謝恩セールキャンペーンは79年10月からはじまった。
 目玉は中国旅行ご招待である。
 国交が回復して7年になるが、中国路線は北京と上海のみで、それもJALとCAがそれぞれ週2〜3便運行するだけ、中国旅行はまだ招待旅行の段階、いまのような旅行社主催のパック旅行などはなかった。
 
 国内営業の顧客の翌年9月までの一年間の売上に応じて、Aコース 北京−南京−上海(7泊8日)、Bコース 北京周辺(4泊5日)、Cコース 上海周辺(3泊4日)のなかから1名〜3名をご招待するという内容で、実施は81年の初春、そのキャンペーンのため社内報を改称、キャンペーン誌に変貌させて毎月カラー8P建てで編集、招待旅行の終わる81年3月までキャンペーンの動向とともに中国情報が発信されつづけられた。
 
 招待旅行はA、Bコース各1団、Cコースは2団の数十名が参加して行われたが、これに味をしめて翌年の夏にはサンファンの売上だけにしぼった“サンファンのふるさとを訪ねて”キャンペーンを実施した。
 上海と北京から中国入りした2グループが列車で青島に到着、サンファンのふるさとの生産現場を見学するという趣向で、工芸品公司青島分公司の受け入れ、現地滞在費は同公司の招待であった。
 そのころの青島は北京や上海と異なり外国人が滞在するホテルは皆無であった。
 海岸べりの丘陵にはドイツ租借時代の別荘が散在していて異国情緒をかもしだしていたが、大勢の宿泊には適さなかった。
 わたしも他の商談をかねて現地に先入りして総勢30名近くのメンバーの宿泊先を公司と相談していたが、分宿を避けるとするといまは地元の迎賓館に使用されている元ドイツ総領事館しかなかった。
 公司の歓迎宴が終わり、わたしも部屋でウトウトしかけたころ随行してきた社員が血相を変えて部屋に駆け込んできた。
 お客さんが騒いでいる、廊下を軍靴で歩く物音がして“ハイル、ヒットラー”と叫んだというのである、それも一人や二人ではない、あちこちの部屋で聞こえた、という。
 ドイツの亡霊が現れた!どうしよう、と大騒ぎになっているらしい、なにはともあれ大会議室に集まってもらうことにした。
 これは酒でも飲み直して酔いつぶれてもらうしかない。怪談話でもするかのように、ひそひそとしゃべりながら夜明け近くまでつき合うことになった。
 
 翌朝、公司の担当者にそうした顛末を告げるとかれはニタッと笑うのみ、なにかいわくありげな顔つきであった。