はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
<あのとき・あのころ>第一部 |
(30) 技術交流
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初訪中時の64年に契約した毛羽タキも輸入してみたら日本側の思いと異なる品質で、翌65年の夏、品質改良のため日本から技術者を伴って北京詣でのあと総公司の了解と手配で上海へ向かった。
いまは高層ビルが林立する浦東開発区ではあるが、そのころはバンドからフェリーで対岸へ渡るほかに交通手段がなく、見渡すかぎりの田畑のなかを毛羽タキの製造現場―といっても農家の庭先であるが―へクルマで行ったのであった。
これがわたしたちの技術交流のはじまりである。
友好貿易は「土下座貿易」と、揶揄されることもあったとすでに述べたことではあるが、日中貿易の立ち上げの段階では品質の改善には技術交流は欠かせぬもので、実践の現場で働いているものにとってはそのような「中傷」にかかわっている余裕はなかった。
その「思想」は「空洞化」の大合唱の中で続けられている、いまの開発輸入の実践のなかに生かされているといえるだろう。
輸出においても日本の機械の性能を理解してもらううえでこの技術交流は欠かせぬもので、特に新商品の販促には大きな力を発揮した。
いってみれば商社の担当者が最前線の現場で売り買い双方のニーズと要望を、ときには侃侃諤諤と大声を出しながら、伝え合っていたといえる。
このなかからすばらしい手袋が生まれ、ミシンの商売がひろがっていったのであった。
中小商社にあって、担当者はたんに言葉の伝達者に終わってはならない、いま求められる日中貿易の必要性を、現場の技術交流の場で発揮しなければならない、それは何よりも商品そのものの理解からはじまる、これがわたしたちに課せられた任務であった。
ミシンの場合でも、担当者はまず工場のラインに入ってその製造工程を勉強することからはじまった。
中国の技術交流の現場で、当初はメーカーの技術者からの説明をオオムがえしに中国語で伝えていただけであったH嬢も、半年後にはメーカーの担当者から説明はあの子に任しておくだけでよい、とまでいわれるほど技術上の理解が深まり、メーカーの当社への信頼は深まった。
いまは亡きペガサスミシンの下川さんのお引き立てとご紹介で、われわれのグループは三菱の本縫いからはじまってアイロンから裁断機にいたるまで縫製作業場のラインを構成する各メーカーが出揃った。
自動車部品の輸出でも、ジーゼル機器や日立のキャブレータープラントの輸出商談などでは訪日の中国人エンジニアの接応から工場での説明にいたるまで担当者の奮闘があり、メーカーの役員から上司であるわたしに「おたくの会社は社員でもっていますな」と、皮肉っぽい?おほめのことばがあった。
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