はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
<あのとき・あのころ>第一部 |
| (3)日中貿易の再開へ向けて |
長崎国旗事件による日中交流中断のあと、58年7月の中島健蔵など4氏による「日中反省の書」といわれる声明があった。
「・・・数々の交流が行われたが、ひとたび政府の妨害を受けると、その態度の変更を迫ることをなおざりにして中国側の妥協に期待し、中国人民とわが政府との間の調停仲介者のごとき態度にでることが少なくなかった。
『政治は政治、貿易は貿易』という今日の政府のギマン的言辞に惑わされる素地を、われわれ自らが作り出す傾向があったのである。・・・」
しかし反省だけでは事態は動かない。
59年3月の社会党浅沼書記長の訪中、同年9月の元首相石橋湛山、10月の自民党顧問松村謙三両氏の訪中と国内における「60年安保闘争」の高まりが、中国側の関心をよぶが60年6月の「岸退陣」と池田内閣の成立後まで動かない。
この年の7月から翌年にかけて中国側は12の大型訪日団を派遣して、各界の有力者と接触、池田内閣の対中姿勢を見守る。
池田首相は経済界、通産省、アメリカとの調整など根回しをひそかに進め、62年9月の松村再訪中のお膳立てをする。「政治三原則」、「政経不可分の原則」、「貿易三原則」を基礎にした日中貿易再開のレールが用意されたのであった。
貿易中断後も香港経由とか、総評を窓口とする栗や漆などの輸入が細々と行われていたが、この松村再訪中の合意によりLT貿易とこれら「三原則」遵守を認めた、日中友好協会や国際貿易促進協会の推薦による「友好貿易」が両輪となって進められることになる。
ところが、わが社の山本社長は団体役員とその手続きをめぐってひと悶着する。
「三原則」を認めるのにはやぶさかでないが、団体に自らが「友好商社」であると申請するのはおかしい、団体がこの会社は中国に対して友好的であり、「三原則」を遵守して「友好貿易」を発展させる会社であると判断して申請し、中国側の同意を先に取り付けるのがスジではないか、まず入会金を払い会員になってからでなければ申請しないというのは「古い友人」である自分を見下げている、ということであったようだ。
この4年余り、わたしの貿易会社は本社に吸収され、わたしは本社の企画担当として働いていた。
ジェトロへ行って世界の自動車部品輸入商の住所を調べてサーキュラーを出して部品輸出のきっかけを作り、アメリカ領事館の図書館で自動車先進国のアメリカにおける部品販売を調査して、ガソリンスタンドルートの販売に着目、その商品企画や販売体制の整備にも手を染めていた。
また在任中は採用されるまでに至らなかったが、自動車エンジンメーカーへのOEM部品のセールなどで工場めぐりをし、技術者との交流もひんぱんであった。
しかし、これらのしごとはわたしにとっては、日中貿易再開までのツナギにすぎなかった。
62年末、当社もやっと「友好商社」として認定され、中国との連絡を再開することになった。
ながい暗闇の日々であった。
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