はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
<あのとき・あのころ>第一部 |
(28) 上海服装交易会
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広州で開かれる春秋2回の交易会とは別に、カテゴリー毎の貿易商談会がひんぱんに開催されるようになった。
服装関係の交易会は上海のガーデンブリッジを渡った上海大廈で、春まだ浅き2月末から3月にかけて開催された。
北京についで上海に駐在員事務所を和平飯店北楼に設けたのは、バンドに面した輸入商談の窓口公司へは歩いていける利便さにあった。
しかし交易会の会期中は日本のユーザーと一緒に会場の上海大廈に泊り込み、電報を打ちにピースホテル内の電信電報局に駆け込むことも多かった(当時の国際電報には普通電報と書信電報=LTがあり、夜の12時までにLTで発信すれば普通電報の半額料金で翌朝日本で配達される仕組みになっていたのである)。
この服装交易会では新規商品よりも来料加工(日本から原料や付属品を提供)や来様加工(デザインや仕様を日本から提供)の継続的取引が多く、商談成立までにはユーザーともども公司の担当者とじっくり話し合って決める必要があったが、先述の軍足や縫い手袋など中国仕様のものは数量、価格、納期さえ確認できれば即契約とあいなった。
縫い手袋については価格面でなかなか折り合いがつかず、公司の担当者と談合して2年分の契約数量をぶっつけて価格面で合意し、契約書では1年納期、を実際は生産が間に合わなくて納期遅れで2年にわたって船積みするという離れ業を演じたこともある。
“批林批孔”(「四人組」の林彪と孔子批判=実際は周恩来に対する批判)運動のさなかでもあり、工場の生産活動が不整状であることにもってきて、契約にサインする上司がひんぱんに入れ替わっていて、実際の商談は実務に慣れたベテランの担当者が取り仕切っていたという事情もあった。
国交が正常化した翌73年春の服装交易会のことであった。
通常、開幕式と閉幕式にパーテイが催されるのだが、商談のなりゆきで早く帰る人、遅く来る人などさまざまなので、状況に応じて会期中にも歓迎レセプションが開催されることもあった。
このとき軍足の商談が価格面で早々と折り合いがつき、数量、納期とも合意に達したので、わたしはあとは担当者に任せて北京へ行く準備をしていた。
そこへ交易会弁公室から翌日の夜、上海展覧館で歓迎レセプションを行う、弁公室からお迎えに上がるので是非参加して欲しい、との連絡があった。
北上を一日遅らせて会場に着くと、交易団の団長や秘書長などとの応対、これは、これはと思っているとレセプション会場では団長のとなりの席に座らされる。
数十の円卓に日本の商社、ユーザー、中国の貿易公司の責任者や担当者が席に着いている。
数百人の大宴会だ。
団長の挨拶がはじまる。
何も予告はないが座らされた場所から見ると、つぎはわたしの番だろう、覚悟を決めて何を話すか、と思案をはじめる。
司会者がわたしを指名する。
日本のそれこそ津々浦々から参加している業者でわたしを知っているのは、大阪の一部の業者のみ、まばらな拍手のなか、マイクに向かう。
主賓にお招きをいただいたお礼のあと、わたしはおよそ次のように話をはじめた。
「昨年の9月29日、長年の念願が実って日中国交が正常化され感無量である。
しかし、今回もこれまでとおなじく大阪を出て香港経由で上海へ着くまで4日かかった。
いま日中両国政府で航空協定締結の話し合いが進められているが、一日も早く協定が締結され次回の交易会には大阪から上海まで直行便で参加したいと念願している」。
通訳が最後のひとせりふを、同感といわんばかりに熱情を込めて大声で伝える。
団長や同席の中国人から握手攻めにあう。
宴なかば、団長が各テーブルを一緒に廻ろうと誘う、手にはパイチュウ(白酒)の杯、日本人のテーブルでは口につけるだけの真似事で通過できたが、中国人の多い席では、先ほどの挨拶はすばらしかった、と乾杯攻め・・・ホテルまで車で送られたのは記憶にあるが、翌朝目がさめてみると服を着たまま自室の床に転がっていた。
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