はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
<あのとき・あのころ>第一部 |
(24) 自動車部品輸出(二)
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「目標としていた自動車メーカ―に純正部品として納入しているメーカーはほとんど関東にあったし、大阪の部品業界で名を売っていた山福もそこでは無名に近かった。
しかもメーカー各社は中国貿易に関心があっても、カーメーカーへの遠慮もあり、調整に時間がかかった。
日中貿易は何ぞやにはじまって、中国の現状はどうだ、また、われわれは中国機械公司の自動車部品の買い付け窓口だ、といった説得が必要であった。
支えになっていたのは1億円の引き合いと、もしこの契約が実現できなかったら、公司の期待を裏切ることになるという必死の思いであった。
公司はドンドン値切ってきて、結論が出ない。
日本からまだかまだかと催促が来るが、商談は広州から北京へと持ち越される。
北京事務所の担当者は公司の担当者に「早く結論を出してほしい」とマナジリをあげて詰め寄る。
こうして中国向け自動車部品の輸出ルートが切り開かれていった。
このときの1億2〜3千万円の契約は、年末までには3億を超えることになり、翌74年には中古トラック250台、中古部品1億の引き合いまで出てきたのであった。
日中航空路の開設、宇宙船艦ヤマトの年である。」
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