はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
       
あのとき・あのころ
第一部
   
(22) 中国展(三)
 阪神百貨店の催事課長と面談して、中国物産展の開催を提案したのは71年の春、上期の行事予定はつまっているので秋から実施ということになった。
 条件はひとつ、お向かい(阪急)とだけは取引してくれるな、ということであった。
 
 こうして百貨店での「大中国展」は阪神百貨店でも71年10月、72年2月、6月、9月と予定表に書き込まれ、大丸、高島屋、三越、そごう、松坂屋などの催場でも72年から74年にかけて開催された。
 委員長会社としては参加商社の取りまとめや友好協会の展示品の企画などに追われて、片手まではやれなくなってきた。
 貿易部の輸入係が物産展も担当、交易会で物産展用の商品を見込み契約して在庫し、小規模の物産展を運営する会社にも卸をするようになっていた。
 冷凍野菜などの新商品を阪神の会場でテスト販売して、「これはホウレン草じゃないぜ、ホウレン木(ボク)やないか」とひやかされる失敗もあったが、交易会では多品種少量の契約のとりまとめで担当者は走り回っていた。
 
 圧巻はやはり72年の9月、阪神百貨店で開催された「慶祝中華人民共和国23周年 大中国展」であろう。
 9月25日の田中首相の訪中で、国交回復を期待するムードが高まり、会場は連日の超満員、29日の昼前、会場中央のクス玉が割れ、「日中共同声明調印、両国外交関係樹立」の垂れ幕が下がった瞬間、会場から割れんばかりの拍手、万歳の声が響き渡り、その瞬間をカメラが、テレビがとらえる。
 抱き合うひと、手を取り合うひと、お客さんも売り子や関係者もひとつになって喜びにひたっていた。
 
 このときの売上は一催事として阪神百貨店始まって以来の大記録であったとかで、百貨店の社長からご褒美に地下の売場から屋上までの全店取引口座をいただいた。
 催事課長からエスカレート脇のコンピュータ占いの口座がもらえるなら、わしの退職金は要らんわ、というくらいの値打ちがあるもの、とひがまれたが、大なりといえども百貨店は小売の集合体、担当者をひとり専属でつけて対応したが、各売場からハルサメ10個、枕カバー3枚、パジャマ紳士用(M)と(L)各5着、カラーはそれぞれアソートで即納、などとの注文には応じきれず、半年でこのモッタイナイ全店口座を返上した。
 
 それよりも三千万円を超える在庫品をどうするか、中国展はそれからも2年ほど続いたが、次第に規模も小さくなり、最後は物産展やさんに投売りで処分する。
 友好商社としての本業の仕事が忙しくなり始めていた。