はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
<あのとき・あのころ>第一部 |
(21) 中国展(二)
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山福の<おかげさまで30周年>記念キャンペーン誌に、フリーライターの竹若さんが「催事」と題してつぎのような文章を書いている。
「20脚ほどの折り畳みの椅子には、4つほどの空席があった。
食い入るように画面を見つめていた初老の男がつぶやく。
変わったなぁ―大盛況とはいえないまでも、文革のフィルムは好評であった。
71年9月、ダイエー京橋店のオープン催事『大中国展』である。
百貨店やスーパーの店頭で物産展をするようになっていたとはいえ、屋内では初めてであったし、ダイエー側の抵抗を押し切って『中国の政治映画』を映したことに、Yはかなり満足していた。
日中貿易そのものがまだ白眼視されていたなかで、2年前からはじめた中国物産展―初めての会場は、日本生命福島支社の会議室を借りたものであった。
公民館やお寺でもやったこともあった。
それでも続けることが出来たのは、目的が販促だけではなく、『日中国交回復を促進しよう』『中国敵視政策をとらない』を日本の大衆に効果的に報せることにおかれてきたからである。
もちろん順風満帆できたわけではない。
『二つの中国を認めない』では、万博の台湾館粉砕アピールのために、茨木市民会館で中国展を催し、万博ゲートまでデモった。
また同じ年の2月、京都中国展では、大阪から社長単独参加という異常事態が起こった。
文革の影響がわが国にも及び、共産党系組織の分裂騒ぎの中で、京都と大阪の友好商社グループが対立。大阪不参加決定の中での『自分の信念で行く』社長の単独行である。
入社を決定したばかりのYには初めての物産展、それだけに強い印象となっていた。
71年4月には米卓球チームが北京を訪問、ピンポン外交が始まった。
盛り上がりムードの物産展も採算ベースにのりだしていた。
SやZたちが入社、物産展の担当として近畿一円、雑務に追われていたのもこの頃である。
春というのに、汗かきのSはYシャツをぐっしょり濡らしていた。
中国展ではいつもジャムやハチミツなどが人気を呼ぶのだが、その缶詰や瓶詰めのケースを催場へ運んでいたのである。
売場ではZが、戦前満州にいたという老人につかまっていた。『支那鉢というのはねぇ・・・・・・』。
実際物産展のお客はよく話しかけてゆく。
Sも何度も『小さい頃、向こうでカボチャの種を食べたから』とか『アンズのジャムが懐かしいなぁ』と話し込まれたことがある。
Zが負けずに聞きかじりの知識で応酬している。しかし底の浅い知識、しょせん敵ではない。
客は、自信たっぷり切り返すと、満足気にどっさりまとめて買って行った。
二人が苦笑いの顔を向け合ったところへ中年の婦人が、『中国の方ですか』と声をかける。中国を懐かしむ人のなんと多いことだろう―二人は国交回復ムードと売上の伸びをかみしめていた。」
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