はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
<あのとき・あのころ>第一部 |
| (19)北京事務所開設 |
羽田事件による山本社長の逮捕・拘留は、国内営業や銀行取引などに微妙な影響を与えたが、64年の毛バタキの総代理店契約で端緒を開いた会社の日中貿易は順調に伸び、このころには二人の後輩の入社と政治的理由で中国と商売できなくなった商社からの転職組をふくめて貿易部には6人の精鋭が集まっていた。
67年には念願の自動車部品―NGKのスパークプラグとパシフィックのバルブコア―など互換性の高い部品の成約があった。
当時の佐藤内閣の政治姿勢と台湾問題をめぐる厳しい日中関係のなかで、はじめての対中自動車部品輸出について、いまから思えば関係メーカーの担当者にビジネスライクではないお願いをしたものである。
当時日本の自動車部品は台湾を含めた東南アジアの市場に大量に輸出されていた。
それを承知の上で初取引において、文書による“二つの中国を認めない”誓約を求めたのである。
台湾との取引は結構、しかし中国はひとつである、という認識を文書で表明していただけないと中国とは取引できない、という次第である。
これは“中国盲従分子”とヤユされても仕方のないような行動であったかも知れぬが、当方としても対中自動車部品の初輸出ではあっても、政治的原則は譲れない、と切羽詰った気持であった。
最終的にわたしとメーカーの貿易部長と話し合い、文書は公開しないという約束で船積みされた。
68年の春の交易が終わったあと、後輩のMくんが北京へ出発した。
当時長期ビザの発給はなかなか出なかったが、毛バタキ輸入の窓口である中国土産畜産進出口総公司が引受人になってくれた。
秋の交易会終了まで8ヶ月の出張である。こうして新僑飯店に北京事務所が開設された。 滞在費は毛バタキのバックマージンで捻出された。
第2号の駐在員は同じく後輩のIくん、第3号はまたMくんと独身者がこきつかわれる。
69年の秋には、いすゞの8トントラックの引き合いを受けるなど、自動車専業商社としての志向がかたちになりはじめ、70年から71年にかけて中国語専攻の大卒生を数人採用、出張ベースから常駐の北京事務所体制が整った。 わたしは年に1〜2回、日清のチキンラーメン数カートンとウイスキーをぶら下げて北京へ陣中見舞いに出かけた。
厳冬の北京で、駐在員は島流しの俊寛のように人恋しさにかつれていた。
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