はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
<あのとき・あのころ>第一部 |
| (16)友好交流に妨害の嵐 |
中国で紅衛兵が“毛語録”を手に「造反有理」を叫んで街頭に繰り出す数ヶ月前、日本共産党は中国共産党との意見の不一致からこれまでの友好交流に反対の姿勢を見せるようになった。
日中貿易業界では日本国際貿易促進協会と日中貿易促進会の2団体が中国との交流の窓口になり、日中友好協会と力を合わせて日中友好の諸行事を推進していたが、66年の秋に北九州と名古屋で開催される中国経済貿易展の準備活動に日本共産党が非協力の方針を掲げ、事務局の党員活動家が妨害の動きを見せるようになった。日中友好協会の活動にも日共出身の理事たちの反対と妨害が続き、正常な友好交流が出来ない局面が出てきた。
わたしたち友好商社の経営幹部は、大衆団体にセクトの方針をおしつけ、中国との交流を妨害する人たちを排除するために、日中貿易業界では日本国際貿易促進協会に結集して友好商社部会を設立、中国経済貿易展の準備活動に取り組んだ。
日中友好協会でも、非友好な人たちを排除して、日中友好協会(正統)中央本部を成立させ、全国組織の再編成に着手しはじめた。
北九州市で66.10.1〜21開催された中国経済貿易展は156万人が参観、同名古屋展(6611.19〜12.11)では217万人の参観者があって大成功を収めた。
わたしたちも大阪からバスをチャーターして連日名古屋に駆けつけたが、ゲバ棒を振りかざして反対する妨害分子には正門前でスクラムを組んで対峙し、見学者に危害が加えられぬよう対処した。
このときが日本ではじめてゲバ棒が振るわれた事件であると思うが、翌年の2月には東京の善隣学生会館で中国人学生を襲撃する事件が発生、友好協会の青年部から友好商社の社員にも善隣学生会館の防衛を呼びかける檄が飛ばされた。
日中友好協会(正統)の会員間でも意見の相違からいろんな組織が結成され、ちょうど紅衛兵たちが運動の過程でいろんな組織に分裂していったように、わたしの会社でも若い社員のグループが廊下や経営幹部の机やロッカーに「造反有理」のステッカーを貼り付けていた。
日本国内でも「文革」の嵐が吹き荒れていたのである。
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