はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
<あのとき・あのころ>第一部 |
| (13)輸銀融資と「吉田書簡」 |
62年11月に発足したLT貿易の最初の大型商談は、クラレのビニロンプラントの輸出で、これには翌63年8月に輸銀資金の使用が認可され、貨物は同年末天津港に到着、北京東郊の工場に搬入され始めていた。
わたしが新僑飯店に宿泊していた64年2月から4月末まで、ホテルでよく食事の相手をしてもらった知人のMさんは、このプラントを輸出した友好商社の常務で、いつもビニロン製の作業服を着て工場へ打ち合わせに出向いておられた。
香港からの帰途、占領下の沖縄を見たいと出発前に大阪府から許可証をもらっていたので(アメリカの統治下にあって、日本人は自由に往来できないときであった)、台北の松山空港トランジットで沖縄へ行くことにした。
ちょうど、クラレについでニチボーのプラントと日立造船の貨物船の輸出が輸銀資金の使用を前提に契約されていたが、それに対し、「中華民国」からこれを認めないように圧力がかかっている、日台中をとりまく情勢の険悪なときであった。香港から直接日本に帰るひとたちから、中国帰りで大丈夫か、気をつけなさいよ、といわれたため、必要以上に緊張して那覇行きの飛行機の到着を空港ロビーで待ちわびた記憶がある。
案ずるより生むがやすしで、台湾ではスムースにトランジット出来たが、オキナワでは逆に空港の税関で中共からの帰りということ吟味が厳しく、身の回り品位外はすべて空港で預けさされた。
帰国後の5月末、吉田茂元首相から蒋介石政権の張群秘書長(日本の官房長官にあたる)宛に私信が出された、いわゆる「吉田書簡」である。4月には東京、6月には大阪で中国経済貿易展が盛大に開催され、関西から経済界代表団が訪中して周恩来首相と面談するなど、日中国交正常化のムードが高まってきていた矢先の出来事であった。
「日中友好運動50年」によると、その内容は正式に公表されていないが、中国向けプラント輸出に関する輸銀資金適用問題について、日本政府の考え方を私信で説明したものといわれ、台湾側が日本政府の輸銀資金の適用問題に重大な関心を抱いていることを理解し、日本政府としてもこの問題の取り扱いに慎重な態度を持って臨む方針を伝えたもの、とされている。(P207―208)
日中貿易業界では当然こうした政府の方針に反対、くりかえし抗議集会を開いたが、翌65年2月、佐藤首相は対中国延べ払い輸出に輸銀不使用を言明、この2件の輸出契約は失効したのであった。
この年の8月、輸入した毛羽たきの品質改善のため、技術者を伴って北京、上海に2週間ほど滞在した。
北京では数度連絡するもAさんとは会えず、上海南京路の公私合営の商店には人気(ひとけ)がなかった。
水面下で「文革」が炎を上げ始めていたのである。
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