はらだおさむの体感的日中経済貿易小史
<あのとき・あのころ>第一部 |
| (1)長崎国旗事件(一) |
1958年5月2日、長崎市内の浜屋デパートで開催されていた中国物産展の会場に右翼団体に加盟する二人の男が乱入し、会場に掲げていた中国国旗を引きずり降ろしたうえ、足で踏みつけて破損させた(『日中友好運動50年』P119)。これが『長崎国旗事件』の発端である。
わたしは前年の3月、大阪外国語大学フランス語科を卒業して山福(株)(当時はまだ山福ガスケット工業(株)と称していたが)が設立していた資本金100万の子会社―山福貿易(株)に入社していた。
社長の山本庄八が前年の第一回日本商品展覧会(北京・上海)に自社製品の自動車部品―ガスケットを出品、解放後の中国をはじめて訪問して商人の出来る日中友好活動は日中貿易にありと確信して設立された会社である。社員はわたしひとり、友人から副社長兼小使いとひやかされたが、それなりの経緯と覚悟での入社であった。
ときの首相、岸信介はA級戦犯に問われた人物。
石橋湛山との総裁選に敗れたものの、石橋首相の病気退陣で首相に就任、57年9月に合意された第4次日中民間貿易協定の、相互に設置される通商代表部の外交特権と国旗掲揚には、国交のある台湾の中華民国の立場を尊重して、否定的であった。
入社後のわたしの初仕事は、社長の指示で銑鉄の買い付け。
電報商談で大連の五金公司と500トンの、戦後の日中間第一号を契約。
当時日中貿易はすべて通産省(MITI)の認可によるバーター取引であり、この契約のFOBが具体的に何を意味するのかもわからないまま、同金額の輸出枠保有業者との交渉に手間取っているうちに、後発の契約商社が船舶を抑えしまっていたため、期限切れで契約が履行できなかった。
わたしの日中貿易はキャンセルからスタートしたが、それに屈せず翌58年の第2回日本商品展覧会(広州・武漢)にむけて動き出した。
社長は第一回の北京・上海展で、国共内戦時にアメリカが蒋介石軍に提供したGM、フォード、ダッジなどの米軍用車の補修部品を展示していたが、具体的引き合いが取れなかったので、今回の出展は自動車修理の工具・装置に切り替え、業者と出品交渉をくりかえし、記念即売品も2点採用されて、広州・武漢に送られていた。
58年2月1日〜24日の広州展には76万人4月1日〜24日の武漢展では74万人の参観者があり、当社の展示品や即売品は好評で、とくに即売品は武漢向けに追加発注したほどであった。
展示品の売却交渉が大詰めを迎えていた5月2日、「長崎国旗事件」がひきおこされたのである。(つづく)
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