| ふゆぞらの上海で はらだ おさむ |
2005年12月某日
浦東のレストランで昼食のあと本団は帰国の途についた。
3名の居残り組が浦西(旧市内)へ帰るころ、ひとしきり雨がパラツキ、タクシーが拾えない。やっと停まったタクシーは南京東路へ寄り道しなければならないが、いいか、と確認を求める。
助手席に座ったわたしに日本人か、と尋ねてくる。
わたしが「本地人(ベン・ティレン)=上海人?」と聞くと、かれは頭を振りながら郊外の松江出身、家族を田舎において数年、上海で運転手をしているという。
40歳くらい?の問いに、ちょうどだ、と親指をたてる。
わたしも何回か松江に行ったことがあるので、日本の工業団地のことや最近誘致してできた大学区のことなどを聞くと、よく知っているなぁ、と感心。オレは日本人が好きだ、礼儀正しい、文明度が高い、それにいま中国にたくさん投資して、中国の経済に貢献している、これは中国にとって大変ありがたいことだ、とわたしの顔を見つめる。
一介の?運転手がここまで言ってくれたのははじめてだ。
かれは突然改まった口調で「有関人(ヨウ・クワン・レン)=あるひとが」と言った。日本と中国を対立させ、戦争をけしかけている。日本と中国は戦争してはいけない、と。
わたしは「イ尓説的対(ニ・シュオダ・トイ)=そうだよ、あんたのいうとおりだ」と同調、親指を立ててエールを送る。
「有関人」の詮索はやめる。それにしても、この運転手は日々の生活のなかでしっかりと日本を見つめている。
夕刻の南京東路。
風吹きすさぶなか、歩行者街は「人山、人海」― ひと、ヒト、人でごった返している。
わたしもマフラーを巻きつけ、第一百貨店新館前の歩道の真ん中にひっそりと立つ「5・30事件」記念レリーフを見つめる。
立ち止まって見ているのはわたし一人だが、ここは1925年5月30日、内外棉工場のストに端を発した「抗日デモ」流血の現場だ。
戦前の最盛期、上海に滞在する日本人は10万人をこえ、小学校も4校を数えた。
いま上海には長期出張者や留学生を含めると数万人の日本人が滞在、上海日本人学校も虹橋キャンパスについで来春には浦東に小学・中学のキャンバスが完成、2千数百名の児童を擁することになる。
1937年8月13日、「第二次上海事変」の勃発。
上海のひとはこの「8・13」を「9・18」とともに忘れてはいない。
そして宣戦布告なきまま、「事変」は「戦争」に拡大していく。
映画「太陽の帝国」にみる日本軍艦のバンドへの砲撃。
上海の歴史を回想しながら歩いていると、うら若き女性が近寄ってきて時間をたずねる。4時半だよ、と教えると「フラム・ホンコン?」と今度は英語。
「ノー」と手を振ると、「あなた日本人?カッコイイワネー、わたしとお茶でも飲まない」と日本語で誘いかけてきた。
寒風がひとしきり強く襟元に吹きつけてくるのであった。
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