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絵本『100万回生きたねこ』(佐野洋子・講談社1977年)が中国で翻訳されていた事を知った。本屋では見たことはなかったが…… 我が家から比較的近くにある女子大の図書館には、中国児童文学、少年文学関係の小さな雑誌が三種ある。昨年偶然これらをぱらぱらめくっていて南瓜に関する「散文」(エッセイ)をみつけて、中国の貧しい山村と南瓜の関係がよくわかり、長い間ずっと胸にあたためていた南瓜や各種瓜の物語作りに大いにヒントにした。(呆報210号) この夏、静かな図書館で、《中国児童文学》(季刊・人民文学出版社)三・四年間分をまとめて目を通す事ができた。それは、偶然目を惹く記述を発見したからである。連載コラム《文心雕虎》(劉緒源)に国内外の作品が紹介してあった。『ハリー・ポッター』だけであれば、それきりで終わったと思うが、台湾の幾米が中国でも大人気、数回登場し、’05/2号には『100万回生きたねこ』(《活了一百万次的猫》)が登場してきたのであった。劉緒源は、この絵本が中国の書店に出た時の事をこう紹介する:
「一冊の日本絵本(ここでは“画書”が使われている)が人々の論議をよんでいる。その物語はとても簡単だ。複雑難解なのは物語の終りである:ノラ猫になってからの主人公がなぜ、楽しく暮らしたのか、涙を流したのか、生き返らなかったのか、それには無数の答えがあるだろう。」と始まって、「実を言うと、私はほとんどの評論に満足できない。この絵本のもっている豊富な内容は、どの深さにまで及ぶのか、未だにつかめないほどだ。………」それから、生と死、庇護と自由、愛することと愛されること、愛し合うことと自己愛、愛の代価、幻覚に満ちた子ども時代と平凡で切実な人生、自己喪失と主体性……の多各方面からの追求が述べられるのである。例えば‘庇護と自由’について言う:これは生と死と同じ重要なテーマである。猫の前半生は自由がなく、ノラ猫になったからこそ自由な生命を得る事ができた……自由な生命は限りがあるからこそ尊いのだ。このように……
「この絵本の魅力は、その含むところ極めて豊富で深く、叙述は完全に子ども向けになっていて、非常に簡単で解りやすいところだ。」としながら、上のように多方面から、その魅力をこれでもかと言わんばかりに説き続けている。自らやり過ぎかなという気持ちを、「きみが黙っていればよくわかるのに、言えば言うほどこちらには解らなくなったよ。」という魯迅の風刺を引用して表し、再度念を押す……
「このように薄っぺらな絵本を楽しむにあたり、これらの汲みつくせない内容を決して疎かにしてはならない。」それから……「このような本がはたして子どもにわかるかどうか、大人にはわからない。これは確かに問題だ。私はある母親と4歳の娘にこの絵本を楽しんでもらった。娘は夢中になって、本をめくって見ていた。そこで母は娘に聞く:猫はどうして死んじゃったの?娘は少し答えにつまってこう言った:猫は悲しかったの、泣いたの、泣いて泣いて、それから死んじゃった……母はまた聞く:あなたなら、何度もまた生き返りたい?楽しく一度っきりがいい?娘は、一度っきりがいいと答え、母はいたく感動する。母が娘に聞いた事は、一つの啓発であり指導でもある。しかしたとえ聞かなかったとしても、子どもの心には、絵本の物語と絵は深く入り込んでおり、大きくなってから何かの折に作用するにちがいない……」
『100万回生きたねこ』は、ここ数年中国へ出かける度に必ず用意し、たびたび楽しんだ絵本の一冊である。小学1年から中学生まで幅広い年齢の大勢の子どもたちと、このノラ猫の物語を享受できその濃密な雰囲気が記憶に残っている。最初絵本(すべて日本製)なるものを中国の山村の学校へ持って行くのはとても不安であった。中国には日本のように世界中の絵本を楽しむ市場はないし、「絵」の持つ力をあまり評価されない。上の4歳の娘が何度もめくって見ているのは絵なのに、それがあまり触れられないのがとても残念だ。初回、飛行機の中で、私はたまたまこの分厚い絵本を広げ(原書は薄っぺらではない)、中国語の付箋をページごとに貼っていた。そばを行き来する男性乗務員がのぞきこんで「猫が百万回も生きるんか?!」と言い、女性乗務員から「子どもの本じゃないの」と言ってたしなめられていた。私は「それが生きるんだなあ」と言いながら、内心中国で受け入れられなかったらどうしようと、いよいよ不安と期待が高まった。
山村の小さな分校でも学生数の多い中学校でも、絵本は、最初から高い集中度で受け入れられた。一般に絵本を観賞した後は、しばらくただ黙って余韻にひたるだけであるが、時には、「このお話は好き?」「おもしろかった?」と聞くだけで、あとは心に仕舞ってもらい、私は集中した雰囲気を押し戴いて心に仕舞う。『100万回生きたねこ』は、中学校でのようすが記憶に強く残っている。学生たちは、しばらくただただ最後のページをじっと見ている。いいなあと思いながら、「ノラは幸せだったかなあ。」とつぶやくと、間をおいて男性の声で「幸せだったよ……」と聞こえてきた。またあるところでは、「ノラは愛してた?」とつぶやくと「愛した!」「君も愛してる?」「***!」恥ずかしそうに友人と顔を見合わせた。
劉緒源の『100万回生きたねこ』論は、あらゆる断面から「これでも書き足りない」と評価される。その説明が多ければ多いほど、また「美しい絵」である事にも触れられ、親子に読み合ってもらったり、いたれりつくせりであるのに、私には絵本の感動が伝わって来ない。大人と子どもの関係は、与え、与えられる関係、指導し指導される関係であることを重視するからだろうか。絵本は絵が語るからすごい!その迫力は年齢には関係なく迫ってくる!山村の子どもたちにはもうわかっているが、大人はその感動はないのだろうか。
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