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家族や友人が何かの事情でつらい時、私は力になれないだろうかと思う。 その時の私の心の動きは、「相手の心に寄り添いたい」または「相手の話に耳を傾けたい」などと言えるかもしれない。そんな時、「心のケアをしてあげよう」とか「心のケアが必要だ」とは思わないだろう。前者は私自身の自然な感情であるが、後者のカタカナ語は、私の心身とは無縁であるばかりか、むしろ、私自身がつらいとき、周りの人から「(周りの人々とは直接関係ない人々の)心のケア」を受けることを勧められるような事になれば、私は「ちょっと待って」と考えるだろう。少なくとも周りの人々の「心配り」が私の心に添うものかどうかを確かめる自由をもっていたい。 新聞の記事で、少女が「心を寄せて見守る」様子を読んで感動した。私だったらたとえケータイを持っていても気づかないかもしれない、と深く思った。それは―― 「私(大江健三郎)と息子の光が散歩の途中、光が石に足をとられてころんだのです。 自転車でやって来た壮年の婦人が飛び降りると、――大丈夫?と声をかけながら光の肩に手をあてられまし た。光がもっとも望まないことは、見知らぬ人に身体を触られるのと犬に吠えられることです。こういう時、私 は自分が十分に粗野な老人であることは承知の上で、しばらくほうって置いていただくよう強くいいます。 その方が、憤慨して立ち去られた後、私はある距離を置いてやはり自転車をとめ、こちらをじっと見ている高 校生らしい少女に気付きました。彼女はポケットからケータイをのぞかせて、しかしそれを出すというのじゃな く、ちょっと私に示すようにしただけで、注意深くこちらを見ています。…… ……私にとどいたメッセージは、自分はここであなたたちを見守っている、救急車なり家族なりへの連絡が必 要なら、ケータイで協力する、という呼びかけでした。」(朝日新聞『定義集』)
ここ2年余りの間に、「ケア」に対する違和感を提起した呆報に寄せられた感想(不満を示す)について、私はどうすればかみ合うのか、解らないままでいる。 若い女性は言う:「日本には心のケアを必要とする子どももいると思う。(あなたが心のケアを疑問に思うのは中国の子どもを考えるからで)中国の子どもたちは打たれづよくてケアが必要ないのではないですか。」これもずいぶん乱暴な言い方だと思うが、私にとって「心のケア」とは、やはりその実態がつかめない浮遊している言葉である。 心のケアは、専らTVなどで、事件の被害者に同情して言及される。「心のケア」の必要を叫ぶいわゆるコメンテーターは、自らの役柄と同じような意味で「ケア」専門家を頭に描いているのだろうか。コメント専門家がケア専門家と違うのはテレビに顔をみせているところである。私はぜひとも「ケア」を持ち出す者たち自らが、実体のあやふやな「心のケア」の内容、内部を透明に見せる方法を考えてほしいと願っている。テレビなどメディアで持ち出されてしまったこの言葉は、自分が関わらなくてもすむ領域に何かあるらしいという発想を生み出していないか。その事と私たちの中に自然発生する感情「心を寄せる」「心にかける」「心にとめる」「……」はつながるのかどうか。 私がその言葉を使えないのは、私の中に湧き出てくる感情とはつながらないその言葉の背後に、冷たさを感じてしまうからである。根がなく浮遊する冷たさ。できるかぎり自然な感情から生まれる日本語を探したい、もし「心のケア」を口にする相手と、探し合えれば対話の回路が見つかり、言葉の回路も生まれるかもしれない。
図書館でふと手にしたのが、よしもとばななの新作『ハゴロモ』(新潮文庫)である。浮遊すると言えば、この本の美しい表紙の羽根は濃い茶色をバックに浮遊している。読み進むほどに、誰かが何かが深くやわらかい心を寄せてくれているように思えてきた。 「(主人公である)私は、今恋に破れて川のある故里に戻っている。 私の父が再婚相手として好きになった女性は占い師。その娘のるみちゃんは、すごく変わっているが、人を 見る目はすこぶる的確である。父の再婚は成立しなかったが、るみちゃんとは友だちになった。彼女はシュタ イナーの本など読んでいて、保育所で働いている。「私はずっと変った子と言われていたから、将来私が保育 所をつくれば、誰か変った子がいても、理解してあげられる……」ある日、私がるみちゃんの家を出て、見あ げると、るみちゃんの部屋の明かりが見えて、なんだか、今の時間全体に、その味わいに、ふわっと包まれた ような感じがした。 人の、意図しない優しさは、さりげない言葉の数々は、羽衣なのだと私は思う。私は不思議なえにしでひとり の男性とめぐり合う。かれの父は、精神を病んでいた者が起こした犯罪の犠牲になり、その衝撃で生きる気 力をなくしている母に寄り添っている。(男性は「いっしょに心のリハビリをしてるんです」と言う)私は、そのう ち何度もタイムスリップして、懐かしい人やものたちに再会し、忘れていた大切なものを思い出す。外国にい て心理学の本などを訳している父が電話で、どこでどう暮らすか揺れる私に言う:「そういうのが最高なんじゃ ないか?自然に、川のように流れて、あるところにいつのまについてしまうっていうのが。」
つらいことや悲しいことを、専門家に預けようとしたり逃げようとしたりしないで、こんな小説を読んだらふわっと羽衣に包まれて、知らぬ間に何かの力がわいてくるかもしれない。そして自らもそんな物語の語り部になるのかもしれない。 毎日のように最近のマスコミから聞こえてくる「心」がある。「これは心の問題ですから、政治とは関係はない。」と言いながら、「心」を公約にしたり、「心」を政治的演出をする政治家を見ていて、やはり寒気を感じてしまった。ケアというカタカナだけではなく、「心」の回路も見つけられなくなってしまう。
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