| 漢語の店看板が続いている。陶磁器を大小並べる雑貨店、絹の反物をズラリと立て掛ける仕立屋、飴色のたれをてかてかに光らせたアヒルの姿焼きをショーウインド越しにぶら下げるのは食堂兼燻製屋だ。夏蜜柑のピラミッドをベニヤ板上に並べる露天商の脇を通って歩道を進み、飲茶店の裏を入ると、そこからまた菜っ葉の切れ端が青くへばりついた狭い地面が伸びている。米国にあって米国ではない、香港あるいは広州の下町然りの細道が、ボストンのチャイナタウンにはどこまでもつながっている。
「天下為公」の楼門脇にある老舗の菓子店に入った。揚げゴマ団子、芋餡パン、月餅、肉マンを選ぶ。「餡子じゃなかったの? 標準語をしゃべる北方人の好物は」と、女主人に黒餡餅を勧められた。中国では、北京人は北京っ子以外を「地方人(おのぼりさん)」、上海人は上海っ子以外を「郷下人(田舎者)」、広東人は広東っ子以外を「北方人(北方生まれ)」と、互いに揶揄半分お国自慢半分で呼び合う。チャイナタウンの住民は大半が広東省一帯を由来とする人々であり、交わされる言葉は広東語だ。だから標準中国語を話す者はことごとく東京生まれの日本人でさえ「北方人」に一括り、というわけ。
チャイナタウンの住人が広東人であるのは、19世紀半ばから進んだ中国人の米国出稼ぎの主役が広東省一帯の人たちだったことに由来する。古く唐代から海港都市として栄えた土地柄、海外の風に敏感で開拓精神にあふれた広東人は、アヘン戦争敗北後疲弊する一方の中国を離れ、米国に次々と渡った。カリフォルニアでの金採掘や農場労働に就く者が少なくなかった。やがて東海岸に移動し工場勤めや商売を始める者も出てきた。
よく知られているのは1869年に完成した北米大陸横断鉄道建設に大勢の中国人が携わったことだ。米国移民局の資料によると1865年からの4年間に約10万人の中国人が米国に移民し、うち約1万4千人が同鉄道建設の早期完工に貢献した。
当初は単身で渡り、稼いだ後は家族の待つ中国に戻る者が多かった。広東省江門市には米国帰りの村民が建てた往時の建造物、海賊からの襲撃防御のトーチカを備えた「?楼」と呼ばれる建物が数千棟も現存し、世界遺産に指定されている。帰国者の羽振りのよさが新たな出国熱を生み、中国人の渡米は進んだ。20世紀の初めまでには家族渡航が本格化し、定住して各地にコミュニテイを作ったのが今日のチャイナタウンの始まりだ。
もっとも中国人の米国移住は順当ではなかった。中国人労働者に富や働き口を奪われるとの危機感に端を発した米国人による中国人排斥行動がしばしば起こった。『The Chinese Americans』(Barbara Lee Bloom著)によると、カリフォルニアでは市民権のない外国人に対する金山採掘税徴収が1852年に始まり、54年には中国人移民に対し裁判で白人に反論する証言を禁ずる条例が出された。中国人排斥条例が可決された1882年以降は、中国人の米国入国が最小限に抑えられ、市民権申請拒否、再入国不許可、子弟に対する公立学校入学禁止規定が実施された。
中国移民の多くがチャイナタウンに集まって居住し、互助組織を作り、独自に学校や医療施設を建て、仲間の職業斡旋、生活擁護に一致してあたったのはこのためだ。日中戦争最中、中国国民党総統蒋介石夫人、宋美齢が中米関係強化の演説をしに米国の国会を訪れた。宋美齢訪米直前に米国は中国移民排斥条例をようやく撤廃した。
中国の対外開放が本格化した1980年以降、中国人の渡米は留学や研究、ビジネスの形で、広東省出身者に止まらず全国の高学歴の青年を中心に広く進んだ。新しい中国移民すなわち新華僑はチャイナタウンに住むことを好まない。所属する大学や研究機関の近辺、或いは教育環境がよいとされる郊外の町に住む。新華僑はチャイナタウンを訪れるたび、掃除の行き届かない店舗や町並みに憤慨する。「チャイナタウンがすなわち中国大陸の姿だと米国人に誤解されかねない。いまの中国の都市はもっとクリーンだぞ」。
悪態をつきながらもしばしば新華僑がチャイナタウンに足を伸ばすのは、第一に中国人には何があっても欠かせない中国料理の食材を求めるためであり、第二にチャイナタウンは米国で故郷中国を色濃く感じさせる唯一無二の場所であるからに他ならない。
一方のチャイナタウンの住民は、今日の在米中国人社会の基礎を作った開拓者としての自負を持つ。今も広東人社会を頑なに維持すると同時に大陸の対外開放を好機とし、高度経済成長に呼応しようと努めている。ボストンのチャイナタウンには、広東人の母親たちの強い要望で8年前、標準中国語の補修校ができた。町の小・中学生約500人が広東語、英語に続き第3の言語となる標準中国語を、週日の放課後や土曜日曜を充てて学んでいる。
雑然として一見ぶっきらぼうでも、チャイナタウンは成り立ちからして人々を抱え込む機能を持つ町だ。米国に暮らす今ほど中国語を学んでいてよかったと実感したことはない。部屋探し、引越し、買い物、子供の学校の入学手続きなど、ボストンでの生活の立ち上げは、在米中国人の手助けなしにはやってこられなかった。とりわけチャイナタウンには世話になった。米国到着翌日に中国の友人に連れられて来てからというもの、週に一度は必ず足を運んだ。チャイナタウンには味噌や醤油、煎茶など日本食を揃えたスーパーがあり、総合病院や公立学校、ホテルやスポーツセンターがある。医師とのやり取りがこちらの英語力ではおぼつかなかった当初、子供の健康診断から転んだときの怪我の手当てまで、中国語の通じるチャイナタウンの病院で、中国人医師に診てもらった。
町に匿われて生きてきた人にも出会った。文化大革命時に反革命派として傷つけられていた1968年、18歳で大陸から香港に逃れ、やがて米国入りした中国人男性だ。「コミュニストめ」、と今も憎憎しげに祖国脱出当時を振り返る。もっとも、チャイナタウンから40年間離れずに暮らしたのは、ひとえに祖国への思慕からだそうだ。各々の出自や事情はひとまず脇に置き、共に食卓を囲もうか、そんな際どい包容力がチャイナタウンにはあると言う。様々な人間を抱える米国のまさに象徴的一部分だ。
たかが10カ月暮らしただけの感想に過ぎないが米国はどこまでも西洋だった。見目形から付き合いの進め方、自己主張の仕方も東洋とは違う。分かり合えないのでは決してなく、違い自体が西洋と東洋の出合いの大前提だろう。違いに疲れ、アジアに再び紛れてしまいたくなった時チャイナタウンにふらりと入る。東洋の匂いの中で体がゆっくり伸びをする。
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