| 周 紅子の中国レポート(35) |
感謝祭の気楽なディナーの前に
フリージャーナリスト 周紅子 |
米国人にとって年中行事の中でも割合気楽に過ごせるのはサンクスギビング、すなわち11月第四木曜日の感謝祭だそうだ。昨年は11月21日で、同日から学校は土日を含め4日間休暇だった。クリスマスのようにプレゼント購買、カード発送に奔走させられることはない。基本的に内輪でくつろぐ祝日だから、来客用のもてなし料理作りに追われることもない。伝統料理を家族揃って夕食で堪能した後は、テレビのフットボール観戦でくつろぐのがサンクスギビングの一般的な過ごし方だと知人の米国人女性が教えてくれた。伝統料理とは七面鳥の照り焼き、パンプキンパイ、クランベリーソース、コーンプティングなどで、自前で用意できなければこの時期、街でいくらでも出来合いの美味しいものが買える。
もっとも、買い物好きはこの祝日には朝寝坊ができない。感謝祭の翌金曜日は、各デパート、商店が軒並み年に一度の感謝祭セールを催す。大型ショッピングモールは平常より数時間早い午前6時には店開きし、販売数限定の大幅値引き品で集客する。店の駐車場は開店前に満車となり、破格値のテレビを獲得するため徹夜で門前に並ぶ客もいる。
さて、わが家はどう過ごそうか。収穫感謝祭であるから、やはりご馳走を考えなければならない。両足を背の上に組まされて鎮座する七面鳥の肉を丸ごと買って焼いてみようか。皮がパリッと焼き上がれば米国版北京ダック(?)となり、家族も喜んで平らげるかもしれない、などぼんやり考えていたところ、友人の米国人女性ジャネットが、プリマス行きを熱心に勧めてくれる。
ボストンから列車で南に約1時間、海沿いの町プリマスは、アメリカ発祥の地であり、サンクスギビングが始まった場所でもある。17世紀に初めて新大陸での定住に成功した欧州からの入植者の暮らしを再現した村があり、昨年のサンクスギビングをこの野外博物館、プリマスプランテーションで過ごしたジャネットから、「17世紀の感謝祭メニューを模したディナーがすばらしく美味しかったから、ぜひ試してみて」と特に勧められたことで食いしん坊心が動き、出掛けることにした。
プリマスは、信仰の自由を求めメイフラワー号でイギリスを離れた清教徒ら102人が1620年冬にたどり着いた地だ。厳冬と著しい食糧不足により間もなく約半数が死亡し、定着が危ぶまれたものの、同地の先住民Wampanoag(ワンパノアグ)族から狩猟、漁労や食物栽培の方法を教わったことで、翌1621年秋は収穫感謝祭を祝うことができた。サンクスギビングの始まりだ。これを機にヨーロッパ人による新大陸入植が進んだ。
プリマスプランテーションの清教徒村は、海沿いの丘の上に広がっていた。当時の住居を模した小屋が点在し、家庭菜園ほどの小ぶりの畑が各小屋の裏手にしつらえてある。村を歩き回るスタッフの衣装は17世紀西欧風で、女性は深緑や臙脂色のブラウスに、下はくるぶしまでふっくらと広がるフレアスカートを着てフェルトのつば広帽を被っている。男性はボタンを上から下までズラリと付けた羊毛の上着に白襟を出して、ニッカーボッカ―ズ風に膝下でしぼるようにしたズボンから、タイツの足をのぞかせている。現代に蘇った清教徒らは揃ってふくよかで、サンクスギビングの休日を穏やかに過ごしていた。
しかし時はまさに彼らの祖先が宗教的迫害から逃異民族を隣人として向かい入れ助け合うことは辞さないが、同化や隷属には抵抗し続けた民族だ。清教徒らとの往時の交流史は学校で学べても、後に祖先がたどった苦難は、代々語り継がれる話で知るのみだと、先住民の子孫たる青年は言う。清教徒村では同日、入植者による先住民へのの史実についてはついぞ耳にしなかった。略奪した側はしばしば略奪された側の痛みと損失の大きさを忘れる。これは何も清教徒の子孫に限らないことが、省みて、アジアについて想起すれば自ずと知れてメイフラワー号で到着した11月下旬、目の前の畑はおそらく当時そのままに枯れ、囲いに数頭放たれた家畜の羊も冷たい海風に吹かれて如何にも侘しげだ。獲物の姿を架空に捕らえて男たちが構えた火縄銃から、バフッと白い煙が飛び、どんよりとした寒空に消えていった様子が、往時のむなしさを最もよく表していた。
1620年当時、命からがらたどり着いた地で予想以上の厳冬と飢餓とに見舞われ、生存の危機に瀕していた清教徒らの前に現れたのがワンパノアグ族だった。食物を分け与え、調達法を教えてくれた先住民の姿は、まさに新天地に出現した救済者そのものだったに違いない。
ところが1620年以降、入植者の増大と土地奪取とが進むにつれて、ワンパノアグ族をはじめインディアンと総称された先住民の多くは征服戦争の犠牲となり、伝染病や強制移住、強制労働により人口が著しく損なわれたことは、周知の事実だ。
プリマスプランテーションには先住民ワンパノアグ族の復元集落も、清教徒村から5分ほど歩いて下ったところにある。顔に突き刺さるような冷たい海風を受けながら、ワンパノアグ族の村に一歩入った瞬間、ほっとする温かさを感じた。生きるすべを惜しまず清教徒らに伝えた民族史を知ったが故の感覚と納得しかけたが、それだけではなかった。村を歩くうちに、温かさを感じた所以はワンパノアグ族の住居にあると気づいた。
清教徒村では、広さ6畳ほどの小家屋が家族ごと独立して点在している。狭い玄関先に来訪者は立ったまま、くべた薪のそばに座る清教徒に扮したスタッフの話に耳を傾ける。これに対し先住民村はドーム型の大ぶりのテント家屋を3カ所でんと構える。大家族がくつろぐ居間でありまた来訪者をもてなす客間でもあろう空間が、大きく取られていた。
頭を低くして背をかがめ、テントの厚布の扉をそっと開けてみたところ、20畳ほどの広さの地面の中央に薪がくべられ、火の回りに木製の腰の低い椅子が置かれている。奥まったところに座る年を召した女性は先住民の子孫で、黒髪をゆるく後ろで結び、生成りのズボンの上に巻スカートをつけ、上半身は獣の毛皮を片肌に羽織っていた。
ゆっくり暖まっていけと勧められ、テント内に入り椅子に腰を下ろした。火は客人が座る椅子のそばに置かれ、年若の女性がせっせと薪をくべて暖かくしてくれる。いまは町の中でごく普通の暮らしをしていても祖先の文化、風俗習慣そして苦労を忘れぬよう毎年寒さが厳しさを増す感謝祭のあたりの一定期間、こうして往時の通り暮らしている。長老の女性は静かに話し続けた。
異民族を隣人として向かい入れ助け合うことは辞さないが、同化や隷属には抵抗し続けた民族だ。清教徒らとの往時の交流史は学校で学べても、後に祖先がたどった苦難は、代々語り継がれる話で知るのみだと、先住民の子孫たる青年は言う。清教徒村では同日、入植者による先住民への迫害の史実についてはついぞ耳にしなかった。略奪した側はしばしば略奪された側の痛みと損失の大きさを忘れる。これは何も清教徒の子孫に限らないことが、省みて、アジアについて想起すれば自ずと知れてくる。
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