阿拉上海人(1) アラサンヘーニン<私たちは上海人> 
上海飛翔日本人補習中心校長 松村浩二     
古北という町 

久しぶりの原稿依頼で何を書けばいいか悩んだあげく、上海生活八年目の立場だからこそ、考えられること、言えることを“徒然”なるままに書かせていただくことにした。題して「阿拉上海人(アラサンへーニン。私たちは上海人)」。四回にわたり、楽しく面白く、時には深刻で難しい話題について、自由に書かせていただきたいと思う。一回目は、私が八年間住み続けている「古北」について、しばらくお付き合いいただきたい。
「古北という街」
古北という場所に私は住んでいる。古北は市の中心からやや西はずれの長寧区にある。新興の高級住宅地で多くの外国人が住み、国際的な生活区として高い知名度を誇っている。ここの住人はお金持ちの上海人、商売人の台湾・香港人、韓国人や日本人の駐在員家族、そしてその他の欧米人。街の中心にはフランス系スーパーのカルフールが鎮座し、小奇麗な中庭のあるマンションが立ち並ぶ。通りには、中華、和食、韓国、イタリアンなどのレストランやカフェが軒を連ね、中国、日本、韓国などの不動産仲介業の店が立ち並ぶ。初めて来た人はほんの二、三分歩いただけで、古北がどんなに国際色豊かで不思議な魅力にあふれた一画であるかがわかるはずだ。アジア系、白人系、黒人系、インド系など、世界中の民族が混在する街、それが古北なのだ。
一九九九年、私はこの町に家族とともに移り住んだ。それ以来生活している私にとっては、ここは居心地のいい場所であると同時に、日常の惰性に流されがちな私の思考を刺激し続けるトポス(場)でもある。理由はこうだ。まず、日本の我が家が神戸の人工島にあり、そこの生活環境が国際色あふれ、古北と酷似していること。また、私自身が国際結婚をしており、あくまでも開放的な社会空間の中で生活したいと心から欲していること。私にとって、中国人である妻は、「日本人である私」を常に開き続ける存在であり、そのおかげで私は「日本人の心」の中に自らを閉ざすことなく、絶えず自己変革することができている。つまり、世界中から来た人々が開かれた空間の中で微妙な緊張関係を保ちながら、それが当たり前であるかのように暮らしている街だから、というのがその理由である。
しかしながら、これほど華やかで開放的な生活環境も、実は二重人格的な性格をもっている。たとえば、中国で一番賑やかな春節の時期。古北は普段とは全く異なる表情を見せる。あれほど活気のあった街がひと気のないゴーストタウンのようになってしまうのだ。夜の花火はあいかわらずだが、日中、人通りはまばらになる。日本へ、韓国へ、台湾へ、そして世界中の国々へ、古北の住人が旅立ってしまうからだ。この時期、サービス業に従事する大半の外地人も故郷へと帰省し、街はひっそりと静まり返ってしまう。仮の寓居をもつ外国人と外部に故郷をもつ中国人とが混在しながら成り立っている街。それが古北なのである。普段は華やかで活気があって、上海のどこよりも国際的な街なのだが、それが実は「いつかはどこかへ去り行く人々」が集い、混沌となって交わりながら寄り添って生きる街。一見華々しく見えるが、その実「限りなくもろく、はかない、陽炎のような街」、それもまた古北なのである。
古北はまた、上海人から見れば、一種の憧憬の地であると同時に嫌悪の対象でもある。もともと農地や墓地だったところだ。それが巨大プロジェクトにより高級住宅地へと一変したのだから、以前から居を構えていた農民から見れば、部外者が収奪してつくった街。生粋の上海人から見れば、成り上がりの連中や金儲けに長けた台湾人や香港人が住む街というイメージがまとわりつく。その一方で、若者層や外地人から見れば、古北で働くことは絶好のチャンスをつかむということであり、古北に住むことは一種のステイタスシンボルでもある。上海の中国人にとって、憧憬と嫌悪のまなざしが交錯する街、それもまた古北なのである。
今では美しく洗練された古北も、上海と同様、さまざまな表情をあわせ持ち、そして常に変わり続けてきた。私が来た九十九年当初、古北周辺、とくに古北路の向こう側は、だだっ広い農地と空き地ばかりで、農民が小さな畑で細々と野菜を作っていた。また、地方からの外地人だろうか、周辺の野っぱらに掘っ立て小屋を建て、一部スラム化した区域もあった。エアコンも風呂もなく、コンクリートで不器用に固められた安普請のアパート。家族が肩を寄せ合って暮らしていた。古北に寄り添うように生きる彼らの姿は私の目には一見悲しげであったが、同時にたくましくも映った。
七年前のある初夏の夕暮れ時、四歳になる息子と二人、そんな古北周辺を歩いたことがある。トタンの壁をくぐり抜けて広大な原っぱに立ち、彼らの目線で古北を振り返った時の強烈な印象は今でも忘れない。自分が当たり前だと感じていた古北の美しい街並みが、彼らのまなざしで見つめなおすと、どんなに華やかに見えたことか。私たちには当たり前の居住空間が彼らの常識をはるかに超えた存在であった。それは、私が上海に来て初めて経験した「意味ある驚き」であった。そして、もうひとつの驚き。それは私の生まれ故郷で七十年代に爆発的に波及した宅地開発と都市開発の残像とが、古北周辺の風景にオーバーラップしたことだ。日本の昭和三十年代と上海の今とが私の記憶の中で見事に交錯したことへの驚き。
上海全体がそうであろうが、古北で働く人々の多くは地方からの出稼ぎ労働者=外地人である。現代中国における三農問題(農民・農村・農業)とも絡んで、多くの農民が職を求め、開発著しい大都市圏に出稼ぎに来る。建設従事者、製造業の工場労働者、マンションの保安、飲食店のサービス業従事者、マッサージ店の按摩師、契約家事労働者=アイさん、理髪店助手など。その他、ありとあらゆる出稼ぎ労働者=外地人が古北で働いている。そして、その多くが安徽省や河南省などの農村出身者である。古北の生活が彼ら出稼ぎ労働者=外地人の労働で支えられていることは今更言うまでもない。彼等がいなければ、私たちの古北での生活は決して立ち行かない。
昨年九月、五人目となる我が家アイさんが子供の高校進学の入学金がなくて困っていると耳にした。中国の地方出身者が大都市でどのように生きているか、彼らの厳しい生活環境は、この目で見るだけでなく、中国のメディアを通じてもよくわかっている。専門分野の話をすれば、北京には三百ほどの「打工子弟学校」(民工子供学校)ができているという。その多くが民間経営で政府の援助も充分ではない。そのために、授業料が払えない子供が進学できないケースもままある。全国規模で展開されている「希望学校」運動は農村での教育問題に関わっているが、大都市圏でもまた、家庭の事情で学校に通えない民工の子供たちは急増している。蛍光灯もエアコンもない小さな部屋で「蛍雪の功」を実践する子供たちの姿を思い出し、私はすぐに入学金を無償で渡すことにした。アイさんは涙を流して感謝してくれた。
古北は全てが混沌とした街である。世界中の人々と中国国内の外地人とが、こんな小さな一画に集まって生きている街はそうめったにない。グローバルな市場経済と中国国内経済とが交錯し、世界中から来た人々と中国国内からやってきた外地人とが混在する街。こんな街だからこそ、自らの内に閉じこもることなく、そこで生きる人々の喜怒哀楽をリアルタイムで共有することもできる。ここに生活する人々が「いつかはどこかへ去り行く街」、古北。だからこそ、今こうして、ここに住んでいることの重みを実感できる。不思議な縁で出会う人々とのかかわりも輝いてくる。ほんの少しでもいい未来に向けて一生懸命生きようとするさまざまな姿に勇気づけられながら人々が生きる街、それもまた古北なのである。